友達になりたい

パソコンに向かっているときは、大概左腕に乳児を抱いているので、ログインパスワードを入力するのも、メールを打つのも、日記を書くのも、いまでは右手ひとつです。これは不便で困ったことのように思えて、実はあまり困らない。頭に浮かんだ言葉をすべて打ち込もうとすると、あまりにも膨大な時間がかかるので 此の頃ははじめからあまり余分なことは考えないようになってしまった。片手しか使えないので、一日の大半を室内に籠もって過ごしている割に 読書もまったく進まない。本を好き勝手に読んでいた頃は、本を読むのには自由な両手が必要だなんてほとんど考えたことも無かった。代わりに二千円のスピーカーにi-podを繋げて音楽を聴きます。亡くなってしまったミュージシャンの、たいせつな友達だったミュージシャンの音楽を聴きながら、様々な「もしも」の夢想に耽る邂逅の時間の、とくべつに甘い感傷が好きです。左腕の乳児のハンモックのように丸まったお尻の重たさと湿り気と、頭皮から控えめに漂うどうぶつの香りは、まるで眠り姿のねこそのものです。「こどもなんて」とずっと心で忌避してきたけど、乳児のいる生活を送るわたしは、例えるなら『ハウス食品世界名作劇場』の主人公がかならず小動物を肩に乗せているようなもので、他人が感じる違和感はともかく自分自身にとっては自然です。

桃の節句にやって来たこの子は、日を追うごとに、古いアルバムの中に貼りついている何十年前のわたしに似てきて、こちらを向いてにこりと笑うようになった近頃などは、もはや着ている衣服と背景の違いを除いては まったく同じ人物の同じ顔になってしまって、時を越え、ひとりの寿命などとうに超えても、百年先まで生きながらえようとする遺伝子の執着に、驚く。別にいつ死んだって構わないし、長生きしたって仕方ないし、と格好つけて嘯いたところで すべてを見透かされるような、馬鹿正直な遺伝子の執着に驚愕する。

ひとの日記を読んで、会社に行ったり展覧会に行ったり本屋に行ったり喫茶店に行ったりする生活の有り様を読んで、わたしもともだちになりたい、と思った。メールして、日曜日に待ち合わせをするともだちになりたい。だけど、何処へ行くにも鞄にチワワを入れてくるひとが嫌われるように、左手に乳児を持ってくるわたしは、嫌われるかもしれないな。どうだろうな。ともだちになりたい。