さよならリグレット

朝、うっかり安いハイヒールを履いて出掛けてしまった為、一日中 足に激痛が。数ヶ月に一度は、こんな目に遭っている。仕事上では至って平和な週明けだったのに、個人的には地獄の月曜日だった。自分はほんとうに靴のトラブルが多いと思う。足のかたちのせいだろうか?選ぶ靴の問題だろうか?自分の足が痛いときは、駅のホームや電車の中で、同じようなヒールを履いている女の人に対して、やおら注意深くなってしまうが、自分と同じように激痛に耐えてヒールを履いているように見えるひとは、ひとりもいない。冷静になって考えてみれば、足のかたちなんて、100人いれば102通りもの異なる形状をしているだろうのに、僅か数種類のサイズしかない既成靴から選ばなければいけない現状が異常であるのだ。メガネのように、オーダーメイドがあたりまえの世の中であってほしい、と思うけれども、現代の生産や流通やファッション事情でそれが、そう簡単でないことはよくわかる。
会社では 終始 油を差し忘れたからくり人形のようなぎこちない動きを強いられ、出力した書類をプリンターまで取りに行く動作ひとつにさえ、その度ごとに 砂漠を横断するような一大決心を迫られた。こんな靴 もう二度と履かない。

夜 駅でWRと待ち合わせして、タイ料理屋で夕食。帰宅して速やかにガステーブルを設置。我が家の文明も ついに“火の発明”時代に追いついた。

「大相撲と大麻問題」がちょっと好き。好き、というと語弊がありすぎるけれども、この取り合わせの妙の、よくわからない凄味から目が離せない(※この問題から感じ取られるダイナミズムは、両者とも名称に“大”と付くことが関係しているのかいないのか)

この日聴いた音楽

さよならリグレット

さよならリグレット

4曲目に突如として 小田和正の音楽が始まって度肝を抜かれた。くるりの人らがいくら好きだと宣言しても、小田和正の音楽性は受け容れがたい。しかしくるりの音楽は、彼らの変遷しつづける音楽性と同様に、音楽の中に描かれる彼らの内的世界も、まっとうに成長しつづけているところがとても好きだ。日本のロックで歌われがちな、成熟に対する拒絶だとか 不変であることを善とする価値観、ノスタルジーから正しく離脱できている(気がする)。危うさを美徳とする思春期的な感受性ではなく、大人の感受性で歌ってくれるところが好い。