季節と映画

朝のWRはニートに似ている。毎朝 わたしのほうが先に家を出ているので、肩がズレたTシャツと寝癖頭のまま、いつも玄関先で「いってらっしゃい」と手を振って見送ってくれるから。社会的/財政的にニート寄りなのは実はむしろわたしの方なのだが、こんなに朝の姿がニートみたいなひとはいない。

火曜の朝のこと。単なる配り忘れなのだが、たまたま朝刊が届いていなかったので 起きてきたWRに「そういえば、今朝の新聞届いてないよ」と教えてあげた。するとWRは「おれが毎朝の新聞をどれだけ楽しみに生きているか知っているのか‥‥」と、到底 遊び盛りの二十代のせりふとは思えない言葉を呟くやいなや、寝起き1秒でPCを立ち上げ、次の1秒で配達店を検索し、さらに次の1秒で配達依頼の電話をかけていた。家での娯楽(新聞が?)には、決して手を抜かないのも真のニートだ。あの寝起き姿から1時間後には、スーツを着て電車に乗っているなんて奇跡としか思えない。


早朝の空気は、もうすっかり秋の匂い。この季節が訪れると、“秋の気配”の胸をしめつけるような寂しさについて 誰もが口にするけれど、“あの寂しさ”の原風景は、一体何の記憶に由来するのだろう。

きっとそれは、遠く過ぎ去った恋愛の記憶でも、自分が育った土地の記憶でもなく、わたしがわたしとなるずっとずっと以前、人間がまだ動物だった太古の時代から連綿と受け継がれてきた、冬を畏怖する本能ではないかな、と思う。飢えや凍えの季節が巡ってくることへのおそれ。それは既に失われた本能の内に在る、失われた記憶で、この“喪失の記憶”そのものが メランコリーを呼び起こすのだ。21世紀の秋は、とても安全でとても寂しくて、清々しい。

夜はWRと新宿で待ち合わせをして映画。新作(というか映画自体)を見るのも久しぶり。「イントゥ・ザ・ワイルド」を鑑賞。
http://intothewild.jp/top.html

此の所、ノンフィクション原作の映画はハズレが多かったのであまり期待しないで観たものの、この映画は 思うところがたくさんあって、とても良かった。映画として良いかどうかはわからないけれど。

この映画の主題のひとつである、家族の問題に纏わる主人公の反抗心や諦めは、自分自身に投影できる部分が数多くありーということは、つまり“問題を抱えた家庭”というものは、現代においては至極普遍的であるということだークリスの家庭の問題から派生した思考や行動も、わたし自身 両親の夫婦関係の在り方に繋がるものは、自分自身や自分の生活から 厳格に排除して生きようとしている自負があるので、心の底から共感できた(但し、自分は映画にも人にも“共感”という感情は求めないので、この場合の“共感”も“納得がいった”という程度の意味しかないのだけれど)

鑑賞後 自分の中でもやもやとくすぶっていたのは、クリスは同世代の若者と比べて、非常に哲学的で内省的で、かつ求道的な性質を持った青年として描かれていたのに、あまりにありきたりな理由(=家庭の問題)によって、ありきたりな(=“若者は愚かで死にやすい”という普遍性に則った)死を死んだ、ということだった。

放浪の途中、おまえはどうして旅をするんだ?おまえの不満は何だ?と友人に問われたクリスは「society(社会さ)!」と叫んだ。彼のこの答えが意味することと、彼がこう答えるしかなかった意味は、アメリカと日本、国こそ違えど同じ現代を生きている我々にとって、わかりすぎるほどよくわかる。「society」が開かれた未来を予感させる、希望に満ちて響く言葉だった過去は 教科書の中にしか見出せないほど もはや遠く、今の「society」には閉塞感しか想起されない。社会が社会としての機能不全に陥っている、というより、今では社会という言葉そのものが、せいぜい「世間」並みの意味にとって替わられてしまった。大義のない時代に クリスが力強く叫んだ「society」は、ひどく空疎だ。クリスが自分に課した環境は、たしかに極度に苛酷でヘビーだけれど、若い彼の思考にはアラスカの苛酷な環境には 到底 不均衡な、無鉄砲さや過ちがある。その不均衡のリアリティときたらないのだ。生きることの意味や人間の存在意義は、しばしばその重さよりも、その軽さ、あっけなさによって教えられる。若いということは、純粋で愚かということだ。それは罪悪ではない。あまりにも幼く、あまりにも不器用なクリスの運命を通してそれを突きつけられて、息を呑む。