平皿の水を嘴で飲む

にちようびの日記を 会社のPCの ウィンドウを殆ど解読できる最小にした7cm×2cmの小さな原稿用紙のなかで書いていたら、ちょっとどうかした何かの弾みで それがすべて消滅した。なので ほんものの先週のにちようびが1度目で、書きとめられたけれども消滅したにちようびが2度目なら、わたしは今3度目の先週のにちようびを、している。にちようびも 目を醒ましたらすっかり昼で、いやいやながらシャワーを浴びて長い髪の毛をなんとかきれいにして、映画を見ようと街へ出たのだった。

いつもの早稲田松竹へいく。高田馬場の駅前はきらい。改札を降りて右に進んだ左にあった天津甘栗の店はとっくに消滅してしまったが、むかしも今も駅前は色々な色がありすぎて、ひどく馬鹿そうで品がなくってやりきれなくなる。やりきれなくはなるけれども、(もちろん入ったことはないけれど)学生ローンもファストフードの店も何もかもが原色で、その原色が、18才になった自分の原風景という感じがする。受験の前に此の場所に着いて、母とふたりで高田馬場の駅前の緑のバスに乗った。母は東京に住んだことがないのに、どうしてバスの乗り方がすぐにわかるのだろうと不思議だった。とにかくそうやって、母とふたりで早稲田通りの真ん中を走るバスに乗った。大きな通りの 右も左もギラギラの色で、自転車で通った高校までの田圃しかない通学路とは 随分違う通学路があるものだわ、と(反抗期だったので 隣の母とは一言も口を聞かないで)わたしはぼーっと思っていたのだった。

映画館近くのラーメン屋で急いで昼食をとって、デビッド・クローネンバーグの2本立て(「ヒストリー・オブ・バイオレンス」「イースタン・プロミス」)を鑑賞する。一言で言っても二言で言っても、バイオレンスとグロテスクとサスペンスが凡庸な割合で散りばめられた 凡庸なマフィア映画。ナオミ・ワッツと、登場2分で絶命して画面から消えたロシア人の娼女役が可愛い。やっぱり映画なんて どんな映画でも文学の深度や可能性と比べたら、比べようもないほど どれものっぺりとして平面的だ。だからそれはそれで良いのだけど、脚本に辻褄合わせなんて求めてもいないけど、だけどこの2本の映画みたいにちょっとでも人間の内面の多面性や複雑さみたいな領域に 下手に触ろうとしてしまったものは、いっそう平面的で白けた気分にさせられてしまう。でも面白いところもたくさんあったよ、どっちの映画も主人公がかならず丸腰で、けれど最終的には相手から銃を奪って大活躍する!銃だって。この映画で描かれるような 北米的な文化・価値観のスタンダードをこれでもか、と見せ付けられると、わたしなんかはまったく怯んでしまう。自分のなかにまったく無いものだもの。けれど、たまにはへんな映画を立て続けに2本も観て、休日を無駄にした気分になるのもいいと思う。映画なんて、ひとをこういう気分にさせるために存在してるんじゃないか?いい映画でもわるい映画でも、映画館を出て貴重な一日がまったく終わってしまったことを知った瞬間 どうしたって絶望的な気分になるから。それにWRとさっき観た映画のことをおしゃべりしながら帰るのはたのしい。歩いたり考えたりしないでじっと座っているだけなのに、気がつくとお腹がぺこぺこで もう次のごはんの時間がくるのもたのしい。

朝に食べるベーグルと珈琲を 一週間分まとめ買いして、ついでに夕食用のレトルトのキーマカレーも購入して、もう明日から12月だ、と会話しながら家に帰る。いつも今がいちばんたのしいので、一年を振り返ったり思い出したりは全然しない。12月で、街にはクリスマスの飾りやマライヤの歌が早速ワイワイガヤガヤと流れはじめたけど、12月は クリスマスじゃなくて 誕生日なんだよ。みんな 12月に誕生日がきて、それでもうひとつ新しくなる。WRと互い違いにお風呂に入って、ベッドの上にきちんとねこを並べてから、本を読んだ。「罪と罰」はもちろん最高に素晴らしいけど、何が素晴らしいかというと「ティーカップの受け沢のようなブローチ」とか そういう表現が最高にいい。ブローチのことを どんなブローチかって書くときに、そんなこと言うひとはドストエフスキーフロベールくらいしかいないって思う。もう秋が過ぎるのに 今年は「魔の山」をまだ読んでない。にちようび 終わり。