きょうみほんい

牧場疲れで、一日中 ベッドに仰臥。そしてきれぎれに目を覚ましている間はずっと『死刑囚獄中ブログhttp://knuckles.cocolog-nifty.com/』を読んでいた。第1回エントリから最新エントリ(200幾つか)まで全部。殺伐としたそれが転移したのかどうかわからないけど、眠っている間、小さな悪い夢ばかりみる。WRが浮気して愕然とする夢とか、小さくて丸い てんとう虫みたいなゴキブリを、際限なく殺しつづける夢だとか。夢にうなされて 眠っても眠っても寝た気がしない。しかしこの死刑囚にとっては、どんな悪夢よりも、目が覚めてからの現実が悪夢そのものであるのだろうし、この死刑囚によって殺された人や残された家族にとっての現実は、何ひとつ落ち度がないのに現実を無期懲役的な悪夢に挿げ替えられたような、筆舌に尽くしがたい悪夢で理不尽で生き地獄であろう。

死刑制度に関しては 新聞を読んだり ルポタージュの書籍を読んだり ネット上で交わされる意見を目にしたりする際に、漠然と思いを巡らすことは多々あるものの、それはもちろん人並みの、思考にも至らない感想のようなものであって、そこで交わされる意見を越えた、何かあたらしく独創的な見解を自分が持っているわけでは全然ない。

なので 後ろからPCの画面を覗き見て「イマドキは死刑囚でもブログとかやってるんだ!」「PC持ってるんだねぇ」などとじつに牧歌的かつ初歩的な疑問を口ずさむWRを尻目に、同じ東京のハズレにて 現在進行形で受刑を待つ日々のブログの主人公に複雑な思いを馳せつつ、他の誰とも違う そのひとの人生や生活に、ついつい見入ってしまう。コメント欄を覗くと、家族への思いを綴ったそのひとに対する同情的な感想も少なからず見受けられたけれども、個人的には彼の心情に共感できる部分はまったく無かった。羅列された言葉からは、自分だけを労わるような、どこまでも自己中心的なご都合主義ばかりが透けて見える。このひとが言葉で綴る家族愛も弱者に向けた視線も 到底信用することなどできない、と、読みすすめるごとに痛切に感じた。しかし“言葉は信用できない”と感じる以上、それを読んでわたしが確かに感じる嫌悪感でさえ、同じく信用できないものではないか?……何やらそんな疑念が生じる。この死刑囚が犯した犯罪内容や背景について、ブログ内で詳しく触れられているわけではないけれど、死刑囚であるか否かはともかくとしても、フィリピンパブに入り浸り、または売春目的で好んでアジア各国を訪れていた過去だとか、競馬にお金を注ぎ込むこと、妻に生活費を依存し暴力をふるい結婚離婚を繰り返していること、そういう人生というかパーソナリティを垣間見るにつけ、同調できる部分があまりにも無く、衝動的に「理解不能」の4文字で片付けてしまいたくなる。そうしたいけれど 決してそうできないのが被害者やその遺族たちであり、その心情を思うと、社会全体としても、決して「理解不能」と思考停止してはいけないわけだ。犯罪者にしろ一般人にしろ、そもそも他人が他人を理解できるわけがない。自分で自分を理解できるひとさえ、いないように思えるのに。いつかかならずこの世からいなくなることは、死刑囚もわたしたしも変わらないのに。灯りのないトンネルの中を 裸足で歩んでゆくような人生。生まれてきたことが、ただただ悪い夢のようだ。