雨降りの終わり

やわらかく雨の降る日、妙にうとうと眠くなって仕方がないのは、外の世界を浸す水が 身体の内部の水を侵食して 少しずつ入れ替わっているからではないかな、と うとうと眠たい頭で思う。

濃度?分子?溶媒?
‥‥なんだっけ、とにかく 浸透圧の仕組みのようなこと。

こどもの頃から 理科って苦手だった。

身体のなかで、ゆらゆら なまぬるい水が移動していく。
海、ではなくて、河の流れでもなくて、湖のイメージに近い。

金曜。仕事終わり。神楽坂。
あかあかと蛍光灯が点る部屋で、化粧も落とさないまま、ぐっすり眠りこんでしまう。

土曜。昼下がり 美容院で前髪切り。
部屋に戻って 服を着たままついついうたたね。

陽も落ちた頃、ふらふら起き出して、最終の部の早稲田松竹へ。「昼顔」「夜顔」を鑑賞。

レベッカ (上) (新潮文庫) レベッカ (下) (新潮文庫)

「昼顔」は、つい最近読んだデュ・モーリアの「レベッカ」と、それから この週末に(短いけど、精神的に何時になく難儀しながら)なんとか読み終えたムージルの「愛の完成」(※)、この二つの作品と プロット上 重なる部分がとても多くて、そのぶん考えが纏まらなくなる。‥ひとの意識の、不透明で不可解な部分について。人格が何らかの行為をするというより、ひとは 連なる出来事によって、その時々でかたちづくられるに過ぎないのだろうか。‥こういう問題にふと行き当たるとき、ぼんやりした感想さえ、迂闊に抱けないような気がしてしまう。

欲望とか。欲求とか。
ひとは、平常、本能的/肉体的な欲求より、精神的な欲求のほうが数段崇高である、単純な欲望より より複雑化した欲望のほうが高次元である、という意識で生きているわけだけれど、では 観念的/抽象的な欲望が、最も俗世を離れた高貴な姿態を持ったものかというと、それはちっともそうではなくて、往々にしてそういうものこそ、最も俗悪かつ醜悪なかたちをもって立ち現れる。

聖俗は常に紙一重である、みたいな結論にはあまり興味がない。

ああ、でも、今の自分にとって 最も醜悪に映るのは、欲望や欲求についてなどより、ひとがいともやすやすと陥りがちな、自己嫌悪とか自己憐憫の類の感情だと思った。悪の名にも罪の名にも病の名にさえ値しない、薄っぺらな感傷。

映画のことを話そうとすると、すぐに話題が逸れてしまう。

「昼顔」のすぐ後に観た「夜顔」は、十分間の休憩しか挟んでないのに、見事にスクリーンのなかの39年後の世界に惹きこまれた。
時を経て再会した老年の男女が、静寂の中 向かい合って晩餐をする場面は凄い。
皿とカトラリーがぶつかり合う 金属的で耳障りな音と、料理を咀嚼する音だけが、沈黙のなか静かに響く。生のグロテスクさを見せつけられるようで、思わず胸がむっとする。
刻々といのちを削っていく、太く短い蝋燭の炎。赤いビロードの部屋と暗闇。鶏。

夜顔」を観たので、ぐらぐらの心が着地した。


日曜。下北沢。目を覚ますと大粒の雨。

商店街のイタリアンレストランで早い昼食。
雨が酷くて、散歩できないので、悔し紛れにビレバンへ行く。
欲しい本がない、ことは承知の上だとしても、手に取りたくなる雑誌も最早全く存在しない。
例えば、此処の店の耽美文学コーナーに並ぶ作家は、
澁澤、夢野、小栗、四谷シモン宇野亜喜良、などなどで、
これはもう完全に断言できるけど、十年以上も全く変化なしの同じ棚だもの。
売れないから、ラインナップが変わらないのか、
それとも 売れる作家は決まってるから入れ替えないのかは知らないけど。

(このあと、まっすぐ家に帰るつもりが、一時間ばかり寄り道して、密室に篭もり、濃厚な時間を過ごした。何処で何をしたかは 恥ずかしいので 内緒にする)

雨が屋根をつたう、ざあざあとした音を聴きながら、うとうと眠りこんでしまう。眠ってばかりの週末だった。

夜 雨脚が弱まった頃、ハンバーグを食べに行って、ドーナツ屋で読書して帰る。


あとで云われて気がついたけれど、この日は一度も電車に乗らなかった。

愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)

愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)

ムージルの「愛の完成/静かなヴェロニカの誘惑」を読むのは、少なくともいまのわたしにとっては、とてもしんどかった。ヨーロッパの心理小説なら、大好き、だけど、この作品のような、一種の恍惚的な、混濁した意識の潮流を なんとか言葉で書き起こしたようなーそれは詩的であるとも言えるし、神話的とも言えるだろうけどーそれを、わたし個人の想像や喚起力の限界を超えた理解を得るのは、とても無理だと感じた。例えば、此処で触れられる「神」とか「獣」という観念ひとつにしても。わたし自身の内にある「神」や「獣」への経験や想念以外、物語上の「神」や「獣」に生命を吹き込む助けはない。ただ文脈を追い、意味を追うというかたちでの「理解」などでは、わたしはいつまでたっても わたしの小さな領域に留まって本を読むことしかできないだろう。

良い音楽を鳴らす為には 良質のスピーカーがひつようで、苦労の果てに だんだんに 高級なスピーカーを手に入れることができたとしても、さいごには 最高のオーケストラ・ホールで聴かないと気が済まなくなるようなことだろうか。