やくそくマーチ

木曜日。雨のち曇り。

十日に一度くらい、出張や外出や代休やらで、勤め先のフロアに ひとが殆どいなくなり、閑散とする日がある。昨日がその日だった。とうぜんこんな日は、社内締切も会議も無く、客人も来ず、電話さえも碌に鳴らない。ひとの少ないフロアは、普段より白く見える。午前中 じぶんのおなかがグウと鳴る音を久々に聞き「テスト中じゃなくて良かった」と要らない安堵を憶えたりする。

閑なときほど お小遣い(残業代)目的で、わざとだらだらと会社に居残ってやりたくもなるものだが、この日ばかりは 暇を潰しまくってやっと定時、という具合で、「暇つぶし疲れ」というわけのわからない疲れに襲われたので、定刻の鐘の音とともに あざやかに退社。

フロアを出たところの廊下で「かーえりたーくなーい、かーえりたくないけど、さよならマーアチー」と、うっかり にこにこぷんのエンディングを口ずさんでしまったところ、別の部署のひとに聴かれてしまって恥ずかしい。ポロリの「さよならマーチ」はほんとうに名曲だ。月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也‥的 本質的な無常観を根底にしながらなお、ニヒリズムの地平を乗り越え、あした(詳しくは“あしたのあした”)へのきぼうを謳い上げている。

いつものドーナツ屋で待ち合わせ。プーシキン「オネーギン」を読了。向かいのWRはジョイスを読んでいた(余談だけれど、一定期間 ひとと本を読んだりしていると、本を読むからには無言でじっと座り合っているだけであるのに、その佇まい(すわりずまい?)で、今 どのくらい書物に没頭しているかが、わかるようになる気がする。少なくとも 携帯に表示される充電量のように、3段階の程度くらいは)

19世紀の西欧文学を賛美するにあたっては、「だからいまさら19世紀って」と「いまさらお前が言ったって」の両者の意味での「いまさら感」に言及することにさえもすら、確実に「何をいまさら」というムードが漂うので、もう、19世紀のあとには草も生えないような心持ちになるけども、此処が枯れ果てた最果てだからこそ、「傑作」をそのまま「傑作」と呼ぶ自分もぜんぜん恥ずかしくない。この手の小説を読むと、決まって思う。世の中の真実のようなことが目に見えるのは、物語の中でだけだ、と。

夜の街をひとまわりして、帰宅。所用上、自分の住む街の「お洒落っぽい店」についてフイと考察したことに端を発して、スープ皿の底よりも浅い哲学的思考が頭のなかを駆け巡り、2秒くらいで「“要求する他者”の要求は かならず抽象的である」、というような自分なりの真理を導き出し、満足しながら眠りに落ちた。

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)