放課後

金曜の夜。珍しく何の約束も入っていなかった ので、ふだん素通りしている五反田の、駅ビルのなかに入っている、ブック・ファーストを散策してみる。文庫化を心待ちにしていた、チェーホフの短編集「ユモレスカ」を購入した。

チェーン展開のレストランがあって、ワンフロアの書店やCD屋があって、ブランド物じゃない女の子の服屋や小さなインテリア小物を売っている店が何フロアかに連なっていて、無印もあって、下のほうにはオープンスペースのスタバがある。21世紀の現在、都心の駅前は着々と、天空に伸びるスタイルの小規模な郊外型に、規格が統一されつつある。

エスカレーターを降りながら、ビルの中の服屋を巡回してみたものの、なんだろう、見れば見るほど、どんどん物欲が減退していく。これが、見るもお洒落なセレクトショップか、ブランド服の百貨店か、はたまた一点ものの品揃えの古着屋の何れかであれば、欲しいものが見つかるかというとこの頃はそういうわけでもなくて、安い服は安いなりに 高い服は高いなりに、並んでいる服に対して、同じ種類の失望を感じてしまう。

喩え、大奮発してプラダのワンピースを買ったとしても、じぶんがプラダを着ていくべき場所には、プラダを着たひとが大勢いて、「ああ、せめて色違いで良かった」と胸を撫で下ろす、それだけのことという気がする。

だからと云って、服なんてユニクロで充分、とか 金輪際お洒落しません、なんてことは思わないけど。

ファッション、は、徹頭徹尾 感覚的なものだけれど、装う、という行為について考えるとき、もっとずっと社会的で心理学的で哲学的なものの見方が産まれる。じぶんはどういうひとになりたいのか、どう見られたいか見られたくないかそう見られるのか見られないのか、自意識過剰なじぶんにとって、服装を通じた自己表現は、個人的な問題がたちまち暴かれるような気がして、警戒しないではいられない。

恋人から、時々「服 買ってあげようか?」と言ってもらえるときがあって、わたしは夏の旅行の前にはきっと買ってもらおう、と思ってひとりで「是非に」と楽しみにしているのだけれど、どうして今すぐ買ってもらわないか、というと、なんとなく このところずっと、上に書いたような装う、という行為に纏わるとりとめのない問題が、ずっともやもやとじぶんのなかでくすぶり続けているからなのだ。

部屋に戻ると、昨日今日と買い求めた本を開く間もなく睡魔に襲われた。もうすぐ6月が終わる。来月のムーミンカレンダー(WRがダウンロード会員になっている)を、忘れずに貰わなければ。