惰眠と映画

この土曜日は、週の半ば辺りからもう「たっぷり朝寝坊してやるぞ」と虎視眈々と心に決めてた。奇妙な夢と夢のあいだを朦朧と漂いながら、少し覚醒し、ゴロンとひとつ寝返りを打つ。そんな緩慢な眠りを貪りながら、低気圧で覆われた、カーテンの向こうの空を思う。

昼前にやっとベッドから起きだして、母親に電話をかける。一ヶ月振りだった。わたしはもう、母のスカートに縋り付き、赦しを乞わねば生きていけないこどもではない。彼女の望む通りの娘でなくては、という陳腐な強迫観念など、今ではとうにわたしを捕らえる力を失ってしまったが、けれども結局 わたしがこころから望む(ように思える)ことは、彼女の望む(ように思われる)ことと一致してしまうようだ。どういうことだろう?しかし、まあ、意外なほど晴れやかな気分で会話を終える。何はともあれ、親は子をこの世に産み落としたこと、子は生み落とされたこの世を全うして生きていくこと、そのことが果たされているだけで、両者が両者に「してあげられること」は、立派に完遂されているのだ、と、(親の気持ちなど、その時が来るまでわかりようもないけれど)そう思うようになっている。

夕刻、のろのろと家を出て、最終回の早稲田松竹へ。この日はアニメーション。山村浩二カフカ 田舎医者」とマルジャン・サトラピの「ペルセポリス」を鑑賞。

最初の映画は、表題の「田舎医者」より、同時上映のワニのはなしが良かった。紙芝居のような牧歌的なアニメだけど、孤独でグロテスクでコミカルで(事実、ひとの一生なんか、この3点だけで構成されているのではないか?)

ペルセポリス」は、珍しく予告から期待していた通り、素晴らしい映画だった。パンの白鳥のエピソードとか。マルジと同じタイミングで涙がぽろり、と流れてしまう。大人に近づいてからのマルジは、“戦禍のなかを生き延びたのに、平凡でくだらない恋愛で命を落とすところだった”という台詞が実にリアルに響いてしまったように、勝気で堂々としたこども時代の面影を残してはいるけれど、革命家でも平和の代弁者でもなく、とてもふつうの女の人に描かれていた。ひとを愛したり、憎んだり、凡庸な挫折をしたり、そこから再起したりする、ヒーローではない、ひとりの人間として。

世界は、ラブ&ピースを声高に叫ばなくては生きていけない場所ではなくて、人間性のすべてが可能である世界であってほしいなー、と、土曜日の静かな早稲田通りをてくてく歩いて帰りながら、そんなことが漠然と頭を過ぎる。

この日 ちょっとした諍いがあった。夜半、甘い甘いベリーニを飲む。