コップの中の海

月曜が月末にあたる日は、はじまりと感じるべきか、おわりと感じるべきか、よくわからず、うろたえているうちに 一日がおわる。

不調であり、また、酷く欲求不満である。
7月の最初の朝は、気だるそうな、とてもよい曇り色。
これから晴れてくるのだろうか。
週末はまた雨が降るのだろうか。

きのうの夜の帰り道 わたしのアパートまで続くゆるやかにカーブした一本道で、妻と子を連れたミュージシャンと、すれ違った。わたしはこの週末、そのひとのライブを観に行くことになっているのだ。

「新しいアルバム(借りて)聴いていますよ、週末のライブも見に行きますよ、もうチケットも買ってあるの」

こんなことを唐突に話しかけても話が弾むとも思われないし、そもそもこんな中身のない独白をおこなう意味は始めから見出せないので、ぼうっと(しかし見過ぎないように)その家族連れを観察しながら、ただ すれ違う。こういう身勝手な符号や接点であっても、雑踏のなかには(あるいは静かな街の片隅には)、無限の想像力の入り口がある。仕事の帰り道、街に背を向けて、誰もいない小さなアパートに帰ってゆく自分と、平日を休日にして、あたらしい家族と連れ立って、賑やかな街に向かって歩いていくミュージシャンについても。次の日曜日には、わたしの休日と彼の仕事の日は、あべこべになっているのだろう。ひとつの線上で、瞬間ごとに、さまざまなひとの暮らしが絶えず触れたり、交わったり、交錯したりしているということ。たったひとり 道を歩いているだけでも、自分の内部に射し込む光の角度のようなものは、変化してゆく。

読んでいる本・金井美恵子「小説論」

「再読」と「女流」に関するくだりに、非常に納得させられる。
本や映画をよく知っていて、猫が好きで、(あんまり頭はキレなくていいから)批判的精神があって言葉のキレる、こういう年上のおんなのひとと話をしてみたい。

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)