昼と夜と

金曜日。仕事は何の問題もなく、平和。

終日 基幹職の上司はみな出張やら会議やらで不在だったので、フロアには弛緩した空気が漂っていて、席に残っているおじさん上司が 若い社員を相手に、血液型談義を繰り広げたりなどしている。

仮に友人や恋人が 血液型でものを語るようなことがあれば、こどもっぽいわたしはあからさまに反発するか、冷酷に聞き流してしまうところだけれど、例えば 会社のひと同士、というような、役職も年代も性別もまるっきりバラバラの何人かで、円滑にコミュニケートしたい場合、血液型ほど万能なものはないのであろうなー、と再確認した。

結局、*型は真面目で *型は大雑把で *型は変人で *型は二重人格者で‥‥という、見も蓋もないステレオタイプなああだこうだ、は、何かを言っているようで、実際は何も言っていないのと同じということだ。血液型の話題は、万人に万能に当てはまる、殆ど唯一の“罪のない偏見”であって、万人に対する偏見だからこそ、それをどう切り返すか、というのも、完全に受け手に委ねられる。「*型っぽい」でも 「*型っぽくない」でも、どんな言い方をされたところで、無邪気すぎる戯言にしかならないからこそ、どんな返答をする自由も与えられている。‥‥

世にはびこる血液型信仰に対して、世界に目を向けてみろ、そんなの日本人だけの文化だよ、という意見もよく耳にするけれども、嬉々として血液型談義を展開する上司は、二名とも、海外現法駐在歴二十年以上、という、どちらかと言えば「日本的でない」人物であることも興味深い。それを鑑みて思うのは、アメリカやヨーロッパで、常に人種や宗教という“深刻な差異”となりうる問題に近接してきた彼らからすると、日本社会のなかであっても、例えば **地方の人間はこうだ、女は、男は、などと、個人の尊厳の領域に踏み込んで、しかも反論の自由が限定されがちな差異については迂闊に口に出すべきでない、ということを「日本的な」日本人以上に思い知っている。だからこそ「日本的な」日本人以上に、彼らは他愛のない会話において、(全員が平等な偏見に晒される)血液型の話題を採用しがちなのではないか、と、話をしながら思ったりして、人生に無用だと思っていた 表層的な話題の効用であるとか奥深さを(今さらではあるが)今いちど見直してみたりもする。

この日もWRと不動産屋を訪れた。昨日とは違う店へ。
しかし店の雰囲気や営業担当のキャラクターに馴染めず、早々に店を退散する。

その後、昨日内見させて貰った物件まで(もちろん中に入ることはできないけれど)WRと二人で、改めて駅からかかる時間を計りながら、歩いてみる。

単にどんな部屋かを見に行くために歩くのと、この道を毎日往復することになるかもしれない、と想像しながら歩くのとでは、見える景色や感じる空気がまるで違う。
すっかり陽が沈みきった細くて長くて平坦な一本道を、お喋りしたり黙ったり時々時計に目をやったりしながら、とぼとぼと歩く。わたしたちはいつも歩いているな。いつも歩いている。喋ったり黙ったりしながら、歩いている。