題名のない日曜日

日曜日。難航が見込まれた部屋探しが 思いのほか 早い時期に片付いたので、ぽっかり空いた昼間の休日を持て余す。

遅めの朝食を兼ねて、午前の早いうちにドーナツ屋へと赴き、アイスコーヒーを吸い込みながら本を読む、という、いつもの休日を過ごすつもりであったのに、わたしの心に 雨雲のように「文学への懐疑」がひろがっていき、とてもゆっくり座って本を読めるような精神状態ではなくなってしまった。

まあ、しかし「文学なんか読んで(学んで)、いったい何の役にたつのか」という、役立たずの役にもたたないこのようなこの問いは、それこそ まだわたしが田舎の県立の女子高生で「作家になるけんワセダに行かんと‥‥」と、誰に教わったわけでもないのに、しぜんと思っていたようなころから、手を変え品を変え、周期的に心の隙間に忍び寄ってくる。一種の季節病のようなものだ。

いやだ いやだ いやだ 本なんかもう読みたくない、と「いやいやえん」さながらに幼児返りを起こしていると、WR(年下)からの「‥‥ひどいやさぐれようだね」という呆れた視線を感じたので、われに返る。こういうときは、ベッドのなかで 貪るように同じ本を繰り返し繰り返し読み返した、こどもの頃に戻るのがいい。岩波文庫でない、ふだん手にとらない作家の本を探してみるのもいい。あたらしい家の「本の部屋」に並べる本の並べ方を想像するのもいい。結局 わたしは本を読む以外のほとんどのことを、本を読むほど好きだとは思えないのだ。

いやいやえん (福音館創作童話シリーズ)

いやいやえん (福音館創作童話シリーズ)

夕刻 恵比寿リキッドルームへ。曽我部恵一バンドのライブ(キリンジに続き、こちらもツアーファイナルとのこと)

サニーデイサービスと、ダブルオーテレサのアルバムはすべてリアルタイムで買い続けて持っているのに、曽我部恵一バンドとしてライブを観るのは、これがはじめて。

ソロになって以降の、曽我部恵一のライブについては、たまたま何かのイベントで見掛けたひとや、同じイベントに出たひとなどから「サニーデイよりこっちが好き」とか「ライブなのにあたたかなきもちに包まれる」という噂をかねがね伝え聞いており「あたたかなきもちってなんだよ‥‥」と内心訝しく思っていたのだが、「サニーデイより好き」はともかく(比較自体が成立しない事柄なので)、後者のほうは、なんてことだろう、まんまと あたたかなきもちに包まれてしまった!

昼間に襲われた、文学や音楽に対して、愛着を持てば持つほど大きくなる懐疑だとか無力感も。曽我部氏は、この日のさいごのMCにて、パーティーはこれで終わりで、君らにも僕らにも明日からまた月曜日がやってくるけど、つづいてゆく日常のなかでは死にたいような日もきっとあるけど、それでも生きていればまた会える日がくる、だからまた会おう、というようなことを、叫んでいて、しかし、まったく、こんなあたりまえでストレートな声なんてもの、こんなのぜったいに、誰の口からも言えるようなことではない。生徒に自殺された校長先生や、1時間8000円の報酬を受ける白衣のカウンセラーが呼びかけられる言葉ではなく、ただ じぶん自身がたのしんで、ギターを弾き、歌って、生きているという真実を見せてくれる人間だけが伝えることのできる言葉なんだろう。必死で生きるおとなの姿を目にすることは少ない。癒し、というような言葉がひとり歩きしはじめたあたりから、世の中全体が躁鬱病であるかのように、目に見えるかたちでバランスを失いだした気がする。世界が病んでいる、ように見えるのは100年前も1000年前も変わらない気がするけれど、でも、疫病も戦争も滅多なことでは起こりそうにないこの空の下で、近いうちに食料がなくなる資源がなくなる地球がこわれる、としょっちゅう脅されているというのは、あまり気分の良いものではない。そんな先の見えない時勢のなか、歌ったり、弾いたり、喋ったり、食べたり、飲んだり、読んだり、書いたり、喧嘩したり、快復したり、怒ったり、笑ったり、作ったり、使ったり、自己を表現し、人間らしい人間でありつづけるのは、なんと忙しく、時に困難なことだろうか。

家路に着き、ちょっと一眠り、のつもりが そのまま朝まで眠ってしまう。昼も夜も、空のなかに雨の予感を押し隠しているような、何か企みのあるような、ひどい蒸し暑さだった。嫌な夢をみた。身体に夢の痕跡が刻まれるような、嫌な夢だ。

キラキラ!

キラキラ!