インド フランス 神楽坂

WRと品川駅で待ち合わせして、山の手線で高田馬場へ。早稲田松竹の最終に行く。

品川の駅は、時々乗り換えに使う以外、ほぼ全くと言っていいほど馴染みがない。京急線の昇降口から、JRの在来線や新幹線乗り場に繋がる見晴らしのよいスペースには、スーツケースをひいた人や 単に通勤の行き帰り途中の人など、同時にさまざまな方向を目指す人々でいつも溢れ返っていて、大正や昭和初期の小説に出てくる「停車場(ステーション)」とはこのような場所に違いない、といつも思う。同じように大勢の人が行き交う駅であっても、東京駅や新宿駅には、品川や上野のような「発着場」の雰囲気はない。「発着場」には、ある種の私小説から立ち上る濃厚な空気に似た、プロレタリアートの沈鬱な熱気のようなものが 絶えず吐き出され、混ぜ合わさっているので、わたしは つい、あまり大きく息を吸い込みすぎないように、身を縮めながら通り過ぎる。

映画の前に、さかえ通りにある インド人が営むインドカレー屋で夕食。
http://gourmet.livedoor.com/restaurant/4161/
インドではふつうのことかもしれないけれど、カレーもナンもすこぶる美味しい。早稲田でインドカレー、といえば、大通りに面したガラス張りの店しか思い浮かばなかったけど、今度からは此処に来たい。インド人は料理がうまいね。

潜水服は蝶の夢を見る
http://www.h4.dion.ne.jp/~wsdsck/contents/program.html
この日観た映画はこれ。映画の最中は夢中でスクリーンを見つめていた。それはだけど、純粋に映画の世界に引き込まれた、というのではなく、単に“想像を絶する苛酷な運命に陥ったひとのドキュメンタリーとして”目が離せなかった、というに過ぎない。こんなふうに、自分のなかに潜むとても高級とは言い難い類の好奇心の存在を認めざるをえないことは、なかなかに辛い。この映画を観たあと、どんな感情を持てばいいのかよくわからなくてぐにゃぐにゃな気分になったのも、そんな「認めたくなさ」のせいだと思う。こわいものみたさであるとか、自己保全の心であるとか、そういうもの。こういうドキュメント・タッチの物語は、普段 自分でも見ないようにしている自分のなかの嫌な部分があからさまにされるような気がして、うろたえてしまう。この映画の帯には「感動と愛の物語」というような、わたしのきらいなキャッチコピーが踊っていたけど、それはわたしが感じる通り 皮肉であるのかどうかも、よくわからない。

障害を負った主人公は、障害を負ったからといって、悟りをひらいて聖者や人格者に変貌するわけではない。この映画には、そうした いわゆる“偽善的な視点”はいっさい介入しないけれど、しかし、偽善的でなくリアルだからこそ、生のかけがえのなさや尊さを想うより ずっとずっとずっと、生の虚しさや、愛の儚さのほうに思いが傾く。「あたりまえの日常のかけがえのなさ」なんて、誰だってさいごまで気づかないで生きていけたら、それがいちばん幸せだもの。

東西線で神楽坂へ。夜風ひとつ吹かない、蒸し暑い夜。
煙草を吸いにWRの部屋のベランダに出たら、空から幸せの贈り物が届いていた。