アース

前日に早稲田通りを歩いたWRから「立ち見が出ていた」との情報がもたらされたので、日曜は朝一番の回を目指して早稲田松竹へ。並びのスターバックスで朝食をとる。近くの席では、政治学専攻と思われる大学生数人が、ゼミの勉強会のようなことを行っていた。その様子を俯瞰しながら、グループワークやディスカッションの本質的な不毛さに思いを馳せる。彼らが学生だから、というわけではなく、過去や現在 自分が所属していた(している)あらゆる会社組織の中で、わたしはクレバーなディスカッションを経験したことがない(これは、社会人になって以来今まで、わたしが常に下っ端で、責任というものを背負う立場になったことがないからだろうか。それとも、自分のいる組織が、ハイレベルのディスカッションを必要としない、話し合いにしてもミーティング止まりの二流、三流組織でしかないからだろうか…)
人と会話することによって、思いがけない福音を享受する機会は多々あるにしても、それが「2人以上の人」であることが、つまりは滅多にないわけだ。隣で本を読んでいたWRも、学生のディスカッションを見て何かしらの思うところがあったらしく、わたしとはまた一風違う、彼なりの見解を述べていた。なるほど、ほほう、と思う。彼はわたしのように、直感と私情にまかせて 単純な思考に走ったり、表面上でものを片付けたりすることはそうそうないのだ。そうこうしているうちに、映画の時間がやって来たので、慌ててトレイを片付けて店を出た。

この日観た映画「earth」「いのちの食べかた
http://www.h4.dion.ne.jp/~wsdsck/contents/inochi.html

予告で興味を持ったのは、「いのちの食べかた」のほうだったけれど、実際に鑑賞して、断然良かったのは、「earth」のほう。

本や映画ばかりであまり旅行に出ることもないわたしの「まだ目にしたことのない世界」への好奇心というものは、実際に出掛けていく人々に比べたら幾らもない、と思っていたけれど、実際に地球の何処かで今も起きているのだという「はじめて目にする世界」の映像の数々を見て、こどものこころで衝撃を受けてしまった。宇宙があって、惑星があって、自然があって、動物がいて、人間がいて、その点にもならない一瞬にスクリーンを前に座っている自分がいる。そんな(少なくとも自分にとっては)あまりにも完璧な世界が、今此処に構築されている意味がさっぱりわからないというような。さらには こういう根源的な世界の営みを我々が目撃できるのも、莫大な資金や技術の進歩があってこそ可能である、という現実的な意味での衝撃も。なんだか、スケールが大きすぎてよくわからない。ついでに言えば、次に観た「いのちの食べかた」の冗長さもまったくよくわからず、よくわからないついでにWRと二人で「ア〜ス」「ア〜〜〜〜ス」と無意味に間延びした発声で口ずさみつつ、遅い昼食を求め求めて、うっかり正門のほうまで歩きついてしまう。

あゆみブックスで久しぶりに本を買い、三朝庵でそばを啜って、読書をしてからまた散歩。早稲田の向こうに まるで川向こうの中州のようにぽっかりこじんまりと存在している 江戸川橋の商店街を通り抜けて、(うだるような暑さのなか、何故かわざわざ)たい焼きを買い食いして無闇矢鱈に血糖値を上昇させながら、神楽坂まで歩いて帰る。丸一日、早稲田界隈でぶらぶらと過ごした一日であった。何処にいても何をしても、常に学生気分は抜けないけれど、こんなあてどない休日となれば、そんな気分もまたひとしおだ。

この日読んだ本 “「私はうつ」と言いたがるひとたち”

掲載するのもヒドいタイトルだが、「普段 思っていてもなかなか表立って口に出せなくてもやもやしている部分」を語弊なく説明してくれるような気がして、思わず手にとってしまった。小説であれ、新書であれ、代弁を求めて本を読むような行為は実に俗っぽいなー、と 後ろめたく思いながらも、溜飲が下がる部分はやはり多い。デリケートな問題のデリケートな部分を、こんなふうに デリケートさを損なわないギリギリのラインで筆致するのは、(医者としても著者としてもプロだとは言え)さぞかし骨の折れることだろうなー。

「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書)

「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書)