欄外の奇妙さ

7月29日火曜日は、実に奇妙な日だった。
まず、朝 駅に向かう通勤路で、頭のない雀を見た。

別の部署で働く同僚とランチ。わたしの唯一の同期入社の女の子。彼女との食事中の雑談の中で、わたしが次に住む家は、実は三年前 彼女が住みたいと考えて、最後まで迷っていたまさにその家だということが判明(*1)。狭い街の中とはいえ、思いがけない偶然におののいた(こういうことは、いったいどれくらいの確率で起きるのだろうか。WRが今住んでいる神楽坂の賃貸マンションも、ある時友人が遊びに来たとき その友人が現場作業のアルバイトをしていた時期、資材を搬入したのがそのマンションだった!という事実に気づいて、驚き合ったことがあったのだという。すべてはすべてに繋がっている、と云ってしまえばそれまでだけど。ふだん隠されている万物との連結が「偶然」という名のもとに暴かれる、その現象自体が「偶然」と呼ぶべきものなのだろうか。人間の力がまったく関与しない部分に限って、局所的で濃厚な因縁の力を感じることがある。どこまでも物証しかない偶然とはつくづく妙なものだと思う)

仕事を終えて会社を出ると、会社の前にWRがいた。意味のないお迎えはとても嬉しい。昨晩の寝不足でふらふらだったが、途端に歩きたい気持ちになって、そのまま少し先の品川駅まで散歩(*2)することにして、日の暮れた街をとぼとぼ歩く。

辿り着いた品川駅前で、オートバイのスリップ事故の目撃者となる。タイヤの擦れる不穏な音が響き渡って 音の方向を眼で追うと、オートバイのひとは、ちょうど車道に投げ出され、転がった。軽症だったようだけれど、事故の瞬間というのは、傍観者である自分にさえも スローモーションで見えるものだ。

そのまま 品川のつばめグリル(*3)で夕食。料理が揃っても、カトラリーが運ばれて来る気配がないので、WRが二人分のナイフとフォークを所望したところ、ウェイターに「‥意味がわからない(原文ママ)」と真顔で返され、撃沈する(「意味がわからない」の意味がわからない。ウェイターはもちろん日本語を母語とする日本人であったのに)。

夕食を終え、店を出ると同時に 空にピカリと稲妻がはしり、慌てて駅に駆け込むと、ちょうどわたしたちの乗る直前で、山の手線が止まってしまった。なんという不運。我々が立ち往生している目の前で、見知らぬ黒人同士が初対面の瞬間、爆発的に意気投合した一部始終を目撃。濃密なコミュニケーションとは、状況の閉鎖性に比例して精度を増していくわけで、動かない山手線をぜつぼう的に眺めていた日本人のわたしに、黒人文化が生まれてはじめて腑に落ちた。

山手線を待っていても仕方ないので、結局 東京駅まで東海道線で移動することに。普段目にもくれない路線であるので、右も左も勝手がわからず、うっかりとグリーン車に乗りこみかけて、とおい彼方へ運ばれかけた(*4)。外界の大荒れとは無関係に、思わぬ快適な旅心地を得て東京駅に到着する。この時点で 今夜は実に色々なことが起きた気がして、既に狐に包まれた気分である(*5)

東京駅に到着すると、今度は歩くも無残な大豪雨で、さらに大勢のひとが足止めされていた。「一難去って、また一難」と念仏のように唱えながら、中央線の途中でWRとお別れする。

しかし、最寄り駅に着いた瞬間に、奇跡のように雨は降り止んでくれた。蒸し暑い夜道を足早に歩く。事件は続くもので、帰り道のさいごのさいご、商店街のドラッグストアの前を通りすぎたとき、わたしが通過した一秒後に(もう雨も風も止んでいるのに)外に向けてうず高くディスプレイしてあった商品の山が 大轟音と共に雪崩を起こして、あわや全身打撲を負うところだった。通行人が集まってきて「あの女の子、巻き込まれるところだった」などとわたしを指して騒いでいたけど、この日は実に色々なことが起こり過ぎていたから、もはやこんなことでは驚けないで(ふぅ、危なかった)と一瞬思っただけで、歩く速度もゆるめずあざやかに帰宅。ふかふかベッドで安眠した。奇妙な日だった。


■1…会社までそう遠い距離ではないけれど、私鉄・JR・地下鉄と3路線を乗り継がないと辿り着けないので、彼女とわたしが同じ駅に住んでいるのは、まったくの奇遇といえる。わたしの次の移転は同じ街の中なので、ご近所物語は今後も続く。

■2…品川近辺は、風景も空気も 何もかもがしっくり来ない。しっくり来ないし、好きだと思える要素が、街の中に何一つない。三田方面から 道路沿いを歩くのだけど、二十年ほど前に流行したのだろうな、と思わせる、古びた中規模のオフィスビル独特の意匠が 心を果てしなくわびしくさせる。

■3…わたしたちは つばめグリルがある街では、余程の事情がない限り つばめグリルに入るように心掛けている。わたしたちは つばめハンバーグは美味しいと信じているので。だけど、つばめグリルの客層は、どこの店も一様に何かがヘンだ。どこの店に入っても、同じ種類のヘンな感じがする。村上春樹風に表現するとしたら、「見かけは限りなくふつうに近いのだけれど、「何か(注意深く観察しなければ、見過ごされてしまうようなセンシティブな何か!)」が致命的にズレたり捻じれたりしているひとびと」というような。

■4…婉曲表現。

■5…誤用。しかし「意外ななりゆきに訳がわからなくなり、茫然とする」と表現したいとき、「狐につままれる」は単に痛そうなだけで全然気分が出ない。「狐に包まれる」ほうが、それこそ 誰もが意外すぎてわけがわからなくなり、茫然とするに違いないと思えるので、わたしはこう言いたい。