解毒作用

前日、昼も夜も女の子と喋りまくって、一年前や二年前の出来事、わたしがすっかり蓋をして一切の関連を断ち切り、風化していた出来事について、知っている限りの事実を口に出したら、智恵熱なのか 解毒作用の一環なのか 日曜日は風邪とも一週間の疲労ともつかないような、異常な疲れに襲われて、涼しくした部屋で一日中眠ってた。なんだかシーツにもマットレスにも、妙な毒素が染み出しているようだ。

自己愛性人格障害境界例の人間のこと。病気ではなく人格だ。特定の人格に病名のような名前がつくのは、彼らの振る舞いがぜんぶマニュアル通りだからで、行いのひとつひとつを説明しなくとも、マニュアルに照合すればそれらは全部紐解ける。

しかし下手にこういう名前を与えてあげると、特権意識の塊のような当人は「自分はやはり誰にも理解されない、特別で選ばれた人間だ」という彼の思考の根幹に拍車をかけるにすぎないので困ったもの。どこか歪んだところのある人間は、どこか別の面で人並み外れて優れて、うつくしい部分を持っている、などと解釈してしまう、甘美な夢想に耽りがちな無知なこどものようなギャラリーも。

彼らは思考力も、表現力も、コミュニケーション能力も、行動力も、責任能力も、すべてにおいて「そうでない人」より劣っている、と考えていい。彼らの大好きな、知力だとか偏差値さえも、(残念ながら)同階層にいるすべての「そうでない人々」よりも劣っている。「彼らは“ある意味”とても賢い」「勉強はできるのかもしれないが云々」などと評するのも、この際思いっきり間違っている。ふつう どんなひとでも、利用できるものとそうでないものの見分けはつくのだ。見分けはついても「利用できるから」という理由で搾取し尽くすようなことは決してしない。何につけても優劣を口に出すのは品の良い話ではないけれど、彼らが拘泥するそこ(=優劣を基準とした歪んだ自己顕示欲)に気がつけないで表面上の振る舞いに幻惑され、妄信するのは、善人であっても馬鹿、ということになってしまう。だって、彼らが賢いのがほんとうならば、支離滅裂な嘘をつき、自分で自分をも騙しながら、何年もふらふらし続けることなど、到底社会は許してくれない。

ともあれ、ひとに親切にするということ、ひとを疑わず信頼を寄せること、同情的であること、困ったひとには手を差し伸べること、等々。闇雲な善の価値観は推奨されるものではないにしても「悪人」に見えない相手には、やはり好く接しなさい、隣人の手を取りなさい、というのが教育であって、仮に「人格障害を疑う」という物の見方ができたとしても、その抜け穴を巧妙に潜り、法に触れないグレーゾーンであきれ果てるほどケチな嘘と迷惑行為を繰り広げるのが彼らである、ということだ。

しかし わたしの知っているその当人は、窃盗・脅迫・暴行・器物損壊・公文書偽造でどうやら逮捕された(?)らしい。言葉もない。狂気のニート。というか、どこまでアクティブなニートなんだよ。これから、どんどん転落していくだろうな。転落しながら、アウトローな自分に陶酔しつづけるのだろう。悲劇の文豪、ではなく、悲劇のおっさんの誕生だ。物語の主人公(カフカの審判のヨーゼフ・Kなど。ヨーゼフKと違って、無実の罪でも理不尽な逮捕でも何でもないんだけど‥)にナルシスティックに自分をなぞらえたりする姿が目に浮かぶ。うーん。