音楽を巡る

夕刻 仕事で 海の上をはしるモノレールに揺られて、湾岸沿いのライブホールへ。(出演者は テレビ映えするミュージシャンばかりなので、個人的には企画の段階からリハーサルが始まる瞬間まで「仕事じゃなかったらまず来ない」とムダなインディーズ精神(反骨)で斜に構えていたのだけれど、実際に彼らの音楽をライブで聴くと、どいつもこいつも驚くばかりに歌がうまくてとてもよかった。メジャーばんざい。売れる音楽の醜悪さと、売れない音楽の醜悪さを比べると、やはり後者の自意識のほうが突出してグロテスクに思われる)
ホールに こもっていた6、7時間のあいだに、激しい雷と豪雨。仕事を終えてようやく外に出ると、真夜中の空気が秋だった。

会場で 懐かしい友人に遭遇した。学生時代から数年前まで近からず遠からず縁があった、バンド友達のひとり。彼はこの日出演したミュージシャンの所属するレコード会社のディレクターになっていて、プレス受付に座っていたわたしと鉢合わせして、お互いに目を丸くする。

わたしは自分の中に唯一保持しつづけられる想いや記憶は、あらかじめ誰とも分かち合えないことが決められている“わたしひとりにしか知りようのない真実”のようなものしかないと思っていて、だから 過去の様々な時期に関わった“他人”との思い出や記憶は、すべて上書きして、日々刻々と更新して生きてきている自覚がある。なので、この日会った彼を含む“かつて自分と深く関わっていた人たち”との思い出や記憶も、すでに自分の中から消滅していると信じて疑わなかったけれど、実際 こんなふうに唐突に過去と遭遇すると、たくさんの記憶が堰を切ったように溢れ出てきて、懐かしくて懐かしくてたまらない。ワゴンに揺られてみんなであちこちライブに行ったことや、吉祥寺で暮らしていた頃の賑やかな日常。この時期のことをわたしは、よいことなんてなにもなかった、と思い込んでいたけれど、実際は全然そうじゃなくて、お洒落をして美味しいものを食べてたくさんの友人に囲まれて大笑いして音楽ばかりを聴きに行って、日々どれだけ幸福に過ごしていたことだろう、とはじめて思った。思い出の効用か。それとも幸せな現在が在ってはじめて、過去も精彩を放つのだろうか。