マティスの部屋

外にでるたびに 地面やコンクリートが雨に濡れた形跡があるのだが、空は晴れているので一日に何度も「雨は何時降ったのだろう」と疑問に思った。帰宅すると、向かいの家の玄関にも 雨粒に濡れた傘が二本立てかけてあった。ほんとうに何時降ったのだろう。

ここ数日のあいだに、対人関係においてがっかりするような出来事が幾つか。躁鬱的感受性で、もう人間不信だ!ぜつぼうだ!と思うようなことではなく(というより、いよいよこの齢になってくると、対人関係における絶望なんて金輪際、(結婚してないけど)離婚するくらい未知で破壊力のある事件でも勃発しない限り、もうありえないような気がする)、単に「関わらなければ済む」レベルの、些細な落胆なのだけど。
わたしは 少し前に、“「わたし」ではない別のひと”に、そのひとが示した誠意のない言動を知っていた。そのひとは、自分自身に属する責任をうまい具合に棚に上げて、被害者の顔でわたしに相談を持ちかけてきた。誠意のない行動というのは、大方の場合がそうであるように、“誰の目から見ても明らかな悪事”ではなく、心理の奥底の隠されたところに存在する、自分を正当化しようとしたり他人を軽視したりする、そのひとの本音のようなものだ。注意深く見なければ「人を悪く思いたくない」とか「他人に対して寛容でありたい」と考えるあまりに、簡単に見過ごされてしまう種類もの。
あのとき、疑問に思いながらも自分の中でもみ消して、見過ごしてしまったことは、やはり今再び形を変えて健在化した。「約束を破る」というような、誰の目にもわかる裏切りではない。わたしが裏切られたのは、どこまでも潜在的な、そのひとの人間性の内奥の矜持の無さに、だ。さいしょから感じ続けていたその直感を 誤魔化し無視し続けてきたわたし自身に腹が立つ。ビジネス上でも、現代の荒んだ世相を反映した、肩を落とすような案件が。教訓を得られるのは 調子の悪い時期だけなので、そんなこんなで学ぶところは多い日々かもしれない。

静かな木曜の夜。ここに越してきて、家で一緒に夕食をとったことが まだ 一度もない。WRは たとえ一日一箱分の時間しかなくても、少しずつダンボールを片付けている。そのお陰で、この夜は画集が出てきたのでセザンヌマティスの絵をパラパラめくる。マティスの「ひょうたん」という絵が わたしのあたらしいお気に入りとなる。わたしたちはふたりとも マティスの絵がだいすき。WRは この日もインテリアの雑誌を買って帰ってくれたけど、マティスの画集が一冊あれば、インテリア雑誌は要らない、と思った。雑誌の中に似た部屋じゃなくて、マティスの絵画に似た部屋がいい。

流れていた音楽

暴動

暴動

さよならセシル

さよならセシル