きのう 買いたての ねこ

朝が冷え込んできた。日曜日は友達の家にお呼ばれ。学部のときの友達が 国分寺にマンションを買ったというので。中古とはいえ、まだ築7年だし、マンションの敷地内にぐるりと吹き抜けの中庭があり、とても良い住まい。部屋の中も、インテリアショップのように整然とお洒落に片付いていて、どうにも広々としている。きのう“買ってきたばかり”という仔猫までいた。山積みのダンボールの中で暮らしている自分たちの生活を、WRとふたり 省みざるをえない。分譲と賃貸。二人暮らしの借家を探すだけでも 手一杯だったわたしたちに、友達夫婦が話してくれた 分譲を手にするまでの煩悶や顛末は、動くお金が大きすぎて、まだまだ遠い異世界に感じる。それにしても、中庭や広々としたキッチンや友達夫婦の雰囲気にぴったりと似合うインテリアは素敵だった。けれど、素敵な暮らしが羨ましいからわたしたちも早く早く分譲を、という考えにはとてもなれない。かえって、素敵な住まいで素敵な暮らしをしてくれている友人を見ているだけで、代償行為ではないけれど、こちらまで満足してしまう。マンションも素敵だけど買うとなると一大事、ねこも可愛いけど病気になったり旅行に出掛けるときは振り回されて一大事、選択にかならず付随する良い面悪い面が 他人を通してあまりにも客観的に眺められるので「まだ このままでいっか」と思ってしまう。コーヒーとケーキをご馳走になり、夕方 中央線に乗って新宿まで戻る。ジュンク堂で本を買って、帰宅。

夕食は、休日の夜らしく、戸棚の上からホットプレートをひっぱり出して鉄板焼き。キノコとエビと豚肉を焼く。WRは男性にしては少食なので、張り切って焼いていたわりにはすぐに満腹になって、「もう食べられない」と音を上げていた。

【メモ】
彼女や奥さんの名前を人前で呼ぶとき、ふだん家の中で呼んでいるように呼ばないで「ねぇ」とか「ちょっと」と呼ぶひとは、セックスレスになりやすいと思う。想像するに、セックスレスは、セックスの問題ではなく 外向きの自分と 内向きの自分の隔て方の問題で、彼女や奥さんのことを人前で名前で呼べないのは、思春期の男の子が「お母さん」と呼べないことと同じだ。“夫婦仲は円満だけど、家族になるとセックスの対象外になる”と吹聴するひとにとっての「家族」は、一種類しかない。一種類しかない、というより それ以上の関係の可能性を考えない。自分のつくるあたらしい家族は、自分が育った家族とは まったく別の存在なのに、他人である配偶者のことも 血縁で繋がった“家族”と同じカテゴリーに押し込めてしまう。“家族”の概念を自分にとって既知である範囲内でしか捉えないひとは、“会話”の種類もひとつしかない。相手のある暮らしの中で、日常の会話はできるけれど、ひつような時にひつようとなる“ひつような会話”を、無意識に避けて通る傾向がある。美味しい楽しい嬉しい以外の、衝突の可能性のあること、面倒そうなこと、厄介なこと、思考共有のプロセスをひどく億劫がる。わかっている(だろう)からいいだろう、と流しつづけているうちに、いつしか埋まらない溝ができる、“<できて>当然”“いて当然”の奥さんでは有難味がない、というチープな感受性を“本能だから”と何やら大仰な言い草にすげ替える男のひとは多いことだろう。あたりまえの存在になることが、ぞんざいな扱いをされることなら、結婚なんかしないほうがいい。

買った本

フランク・オコナー短篇集 (岩波文庫)

フランク・オコナー短篇集 (岩波文庫)