記憶の連関

何も感じない日がある。「感じない」というのは、厳密に云うと嘘だけれど、停車中の電車のなかから、並行して走り去る電車を見ているときみたいに、とにかくぼうっとしていても 右から左へ自動的に景色が変わり、そうしている間にもう、夜が降りてきてしまう。

平日のお勤めは、相変わらず平凡。1時間ほど残業をして帰宅する途中、山の手線のなかで“もしかするとわたしの弟かもしれない人物”を発見し、確証は無かったけれど、どきどきしながら「ヤッホー!」と挨拶してみると、それはやはり弟だった。声をかけた瞬間に電車が駅に到着し、弟は「あ ここで降りるけん、じゃ!」と、瞬く間に去って行ってしまったけれども。

わたしは弟が16歳のときに実家を離れてしまったので、成長したあとの弟の顔が、未だによくわからない。成長期の男の子の顔は、あまりにも変わりすぎるので。しかし あとからじわじわと思ったけど、十数年間一緒に暮らしたじぶんの家族に遭遇して「本人かどうかわかりかねる」とは、なんと奇妙なことだろうか。「あそこにいるのはわたしの弟に似ている気がするのですが、果たして本人でありましょうか」なんてそんなこと、(親以外の)誰に訊ねるわけにもいかない。「知っている」という認識は、過去に得た情報の集積(経験則)にほかならないけれど、その根拠のあまりの不確実さ・頼りなさに、改めて驚く。

このとき わたしが多分本人だな、とあたりをつけたのは、顔や背格好の記憶ではなく、WRが以前「同じ仕事をしているひとは、書類鞄が大きいから街で見掛けてもなんとなくわかる」と言っていたのを思い出したからだった。スーツ姿の弟(らしき人)が持っていた鞄は、WRが仕事に持ってゆく革の書類鞄より大分見劣りのする 非オシャ(非・お洒落)で古ぼけたナイロン製の鞄だったにも関わらず、書類の端を少しはみ出させた厚みというか 中身の入れ方の雰囲気が あまりにもよく似ていたので、なんとなく声をかけてみる自信がついたのであった。むかしから“血縁”の事実のみによって、関係の近さや濃さを強調されることがきらい。そんな概念よりも、やはりわたしは 日々更新されつづける、日常の中で語られる言葉や形成された関係のほうを信じているのだと思う。

WRより一足先に帰宅したので、夕食づくり。牛肉とピーマンとタケノコの細切りを炒めたやつ。かんたん。わたしは、スローフードには 断固として反対したい。美味しくて安全で身体にもよい、よい食材や調味料でお料理をするのはあたりまえだけど、美味しく食べたり飲んだりするために生きるような暮らし方はいやだ。食事のためだけに、まいにち何時間も費やすなんて、ぜったいにいや!すばやく作ってすばやく食事して、長い 長い 夜のじゆうじかんがほしい。望みの暮らしに近づくために、わたしは ファストフードを作る必要がある。真夜中にWRが珈琲を淹れてくれた。朝の珈琲より、夜中に飲む珈琲のほうが、ちょっと秘密っぽくて 美味しい。

この日聴いた音楽

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド