圧倒的に狂気

会社でショックなこと。オフィス近隣で唯一 まともなランチを出していたベトナムレストランが、何の前触れもなく閉店してしまった。従業員は全員ベトナム人。前日まですべては平穏無事に営業していたので、ビザ切れか?との憶測も飛ぶけれど、事の真相は 誰も知らない。

月曜日は、寄り道しないでまっすぐうちに帰り、夕食をつくる。イカのサラダと豆腐ハンバーグ。
わたしは料理をするとき、本を見ること・調味料を計ること・味見をしながら微調整すること、この3つを 絶対に や ら な い ので、いつもあっという間に出来上がってしまう。自転車置き場でタバコを吸っていると、足音もなく人影だけが現れたと思うと、帰宅してきたWRだった。マンションの廻りをぐるりと一周散歩してから家に入る。

食後の珈琲を飲んでいるとき、ニュースが見たくて点けたテレビで、世にも恐ろしい番組がおっぱじまってしまった。世界的に有名な日本人の登山家夫婦が山に登るドキュメンタリーなのだけど、夫婦とも 過去に冬山でひどい凍傷を負い、手足の指のほとんどを失ってしまっているのだ。指がほとんどないのに、まだ登る。それだけでも驚きなのに「指がないにしては険しい山」でなく、「登山家レベルの険しい山」を、そこに山がありますので、と言わんばかりにガンガン登る。山、というより、崖というか岩の切っ先というか、とにかく1000mの高さの場所で、触ると崩れる直角の崖を、フック船長のようにカスタムした登山用具を駆使して登ってゆく。正気ですか。

(やれ生きる意味だとか孤独がどうとか哲学が人生が苦痛が苦悩が…等々、日頃自分が直接的・間接的に接している 広義における「文化的な葛藤」と呼べるもののすべてが、そこには微塵も介在しえないし、彼らの(本人たちはまったく自覚していない)狂気と比較すると「文化的な葛藤」上で言及される 意識された狂気のすべては、吹けば飛ぶようなものだと感じた。病気や不慮の事故で指を失うこととはまったく違う。山に挑む為なら 指の一本や二本…、というレベルではなく指の十本や二十本、もしくは鼻の一個や二個を犠牲にするのも止む無し、と テレビの中の夫婦はナチュラルに志向していたのであって、ついでに夫婦と同じチームで山に登った、夫婦の旧友という登山家も、番組内で特にそれがクローズアップされたわけではないにも関わらず、やはり足の指が凍傷ですべて失われていたのであって、なんというか、山を知らない我々にしてみれば、孤独だとか生きている意味がわからない、という苦悩から発生する狂気は、自分がそうであるか否かはともかく、想像しうる範疇、理解の範疇であるわけだけど、彼らは指を失ったことは元より、指を失っても まるで苦悩することのない自分自身に対して苦悩することがない、そういう類の真の狂気を見せられた気がして、驚く。世の中には、自分はものを考えすぎるので頭がおかしいのだ、と自己言及するひともいるけれど、苦悩したり困ったり恐れたりできているあいだは、すべての人間は常識的でまともなのだ、と間違いなく言える)

毛布にすっぽりと包まりながらテレビを盗み見ていたWRと一緒に、余計なお世話であることは百も承知で「なんて身勝手なひとたちなんだ」と憤る。そんな手で、足で、そんな危ない場所に登って行くなんて!見ているこちらの心臓に悪い。