メロス気分

11:00に 会社の同僚 SMさんと駅(同じ駅に住んでいる)で待ち合わせ。この日は会社主催の演奏会。スタッフではなく出演者としてわたしはアルトサックス、SMさんはトランペットのケースを携え、張り切って改札を通り抜けたところで、わたしは家に譜面台を置いてきたことに気がついて、がっかり。ふだんのわたしなら、ここですべてのやる気を喪失し、落ち窪んで毛布の中にひきこもるところだけど、SMさんに迷惑をかけるわけにはいかないので、彼女に楽器の見張りをお願いして、メロス然としながら 家まで譜面台を取りに疾走する。疾走しながらWRに電話をかけて、玄関の外で譜面台を手渡してくれるよう、嘆願。WRは 家の前の細い道とメインストリートが交差する辺りで待ち構えていて、さっ、と譜面台を手渡してくれた。わたしにしても WRにしても、こんなにも足が遅そうなリレー選手は地球上何処にも存在しないけど、この日いちばんギリシャ的でメロス的な瞬間は紛れもなくこのシーンだった。

しかし疾走はまったくの無意味であった。あまりにも早く着きすぎたのだ(地下鉄で3、4駅の場所なのにわたしとSMさんは3時間前に家を出ていたのだった。馬鹿なのだろうか)。仕方ないので、お洒落なだけで高くて美味しくないカフェで、早めのランチをとる。お店の中には わたしたちと同じく楽器ケースを持ったひとが散見され、口にこそ出さないけれど、みなそれぞれ水面下では(同じ場所に行くのだな…)と意識しあっている。

演奏会は、分刻みのリハーサルが済んだと思ったら、そのままなだれ込むように本番に突入して、あっという間に終わってしまった。観客席は とても高い位置にあって、見に来てくれたWRの姿もよく見えた。WRの近くには、わたしが日頃 秘書として仕えている、慶應ボーイな会社の部長が座っていたので、部長とWRが同じ視界の中に共存している、という、わたし以外 世界中の誰ひとりとして気にもとめないけど、わたしにとっては異常なまでにレアな事態が巻き起こっていて面白い。

オーケストラ的な編成で 音を合わせるのは楽しいけれど、そのほかの面で「あっ」と思いだしたのは、リハーサルや空き時間に、周りのひとひとりひとりが奏でる個人の音についてだった。これは 演奏するひとの大多数に当てはまるけれど、さり気なく音を出すにしても、みなそれぞれに、お気に入りのフレーズというのはあるもので、例えばピアノやギターの場合、演奏者自身が弾いていてきもちのよいフレーズは、聴くひとの耳にも同じように耳触りがよいものではないかと思うのだけど、管楽器の世界では、それは少し違う。指先で弾くギターやピアノと違って、息で奏でるということは、物質的に 弦楽器や打楽器よりもっと肉体的で直接的な行為なのだと思う。楽器の管内に ひっきりなしに唾は溜まるし、舌も使う。それらの行為は 呼吸することはもちろんとして、ものを食べること喋ること舐めること、あらゆる本能を想起させる。

だから管楽器で吹いていてきもちがよい音というのは、他人の耳にも同様にきもちよく響く音楽であるというよりは、演奏者本人の肉体的な快感、自己完結的な陶酔に いっそう近いような気がするのだ。そういう理由で、お気にいりのフレーズを執拗に繰り返すひとの近くにいると、ナルシズムの生々しさ(他人がきもちよい、と感じているであろうことを察知せざるをえないこと)が、果てしなくきもちわるく感じるときがある。これはこどものころからずっと感じ続けてきたことだ。すべての音楽の正体は陶酔感だ、と言ってしまえばそれまでだけれど、ギターやピアノを弾く快楽より、管楽器に息を吹き込む感覚は、自慰的で性的な快楽におそらく いっそう近い。やはり唾液が溜まることが その何よりの証拠という気がする。木管楽器にはウォーターキーこそ無いけれど、演奏を終えたあと、管を逆さまにして、つつつつ、と溜まった唾液を棄てるときの充足感は否定できない。

演奏会後はじぶんが使ったものだけを さささ、と簡単に片付けて、そのまま帰路へ。会場にいつまでもぐずぐず残っているようなことが嫌いなせっかちなわたしには都合が良いけど、しかし非常にあっさりしている。外は まだ18時過ぎなのに、夕暮れをとっくに通り越した ネイビーの暗闇。秋の夜ってこんなに暗かっただろうか、というような。WRと並んで歩き出すと、うまく折りたためなくてケースから飛び出した譜面台を、WRの腕にパシリ、とぶつけてしまったことに端を発して、小規模な喧嘩が勃発する。このところ WRとわたしのいがみ合いのきっかけは、秋刀魚を落としたとか 譜面台をぶつけたとか、やくざの因縁のように些細なことばかり。しかも、つい数時間前には メロス的信頼でわたしたちを結んだ当の譜面台で喧嘩するなんて。そうだ、わたしはもっとやさしくなろう。やさしくて可愛くてねことビスケットが好きな女の子でいよう。数年ぶりの“じゃんがららーめん”をご馳走してもらってから、夜のバンド練習に行くWRとしばしのお別れ。わたしは ひとり 家に帰る。

WRがヴィレバンでお土産を買ってきてくれた。さいしょ わたしはこの漫画家の描く独特な顔がほんとうにダメだった。好きにはならないが、今は随分馴れた。うんざりするようなエピソードも時々あるけど、やぱりとても面白い漫画。大嫌いな牛乳を 息を止めて一気飲みしたときみたいに、ベッドの上でぐいぐい読んで、読みきって、眠る。

僕の小規模な生活(2) (KCデラックス モーニング)

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ホルスト:組曲第1&2番

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