ファクトリーの塔

風邪が良くなった。

月曜日。仕事のあと 新宿で珠美と待ち合わせして、お酒を飲む。彼女はこの日、早稲田の構内で企業ブースを出して、学生向けの企業案内のようなことをしてきたと言っていたけど、本人が白のブラウスに黒いベルベッドのスーツ姿で、ちょっとお洒落なリクルーターのようだった。

タイ料理の店に入り、かんたんに入籍の報告をして、シンハービールで乾杯をする。引越しとも結婚式とも新婚旅行ともタイミングが違う、とりあえず二人きりでひっそりと提出した婚姻届だったのに、身近なひとたちが皆一様に歓んで受け入れてくれることが驚きであり、嬉しい。酸っぱいものは苦手なのに、ここのトムヤムクンは美味しかった。ソムタムもイエローカレーも美味しかった。

珠美は 見た目は可愛らしい女の子そのものだけど、あまり表面的なものに惑わされず、核のようなものをちゃんと自分のなかに持っているので、会話をしていてとても楽しい。たとえ生活上の瑣末な話題でも、女性的で卑俗な方向に思考誘導されることがないからかもしれない。お喋りしていても、違う、わたしはそうじゃない、と 喉元で水圧を押し止めるみたいに感じることが全然ない。この夜も、思いのほか よいインスピレーションを沢山うけて、軽快な気分で家路を急ぐ。

家に帰ると、WRはすでにパジャマを着用して ベッドで本を読んでいた。夕食はパスタを作ったと言うので、多分 WRがパスタを茹でるなんて生まれてはじめてのことではないかと思い、「じょうずにできた?」と訊ねると「パスタのポイントは やっぱり塩加減とたっぷりのお湯」と、この世の全員が知っていることを えっへん、としながら語っていた。やはり 生まれてはじめて茹でたひとであることがまるわかりだ。

WRがこの頃 ずっとカルヴィーノの「木のぼり男爵」を読んでいる。この頃はすっかり木のぼり男爵の話以外をしなくなって、この夜も眠りに落ちる寸前まで木のぼり男爵の話をしていたので、この夜はついに“雲よりも高い鉄塔に登って降りられなくなる”という悪夢を見た。下界では ともだちのバンドが異様に前衛的な民族音楽を奏でていて、その音に促されて わたしは数百メーターもあるファクトリーの鉄塔をどんどん登っていくのだけど、いざ天辺まで辿り着いた途端、足がすくんで動くことができない。一緒に登ってきたWRに助けを求めるのだけど「たとえ一緒に登っても、降りるのは ひとりきり」みたいなことを言い置いて、(天空にいるのになぜか)砂埃のような靄を巻き上げながら、すごい勢いで 先にひとり 滑り降りてしまった。ごうごうと吹きつける風に震えながら、わたしは鉄塔にしがみついて、下界の楽団を恨みに思う。孤独と恐怖に震えながら、謙虚になるどころかどんどん傲慢な気分になってゆくのだ。