したくない

月曜日は 月曜日だった。会社での昼食は(昼休みの電話番などの都合で)ひとりで遅い時間に食べる週と、皆と同じ 12時に食べる週が交互にくる。今週は 皆と一緒の週。ひとりひとりと会話をすると、どんなに平凡な個人同士であっても 決して一般化されない個人としての面白い部分が浮かび上がってくるものだけど、たとえ3人や4人の少数であってもひとたび集団を形成した途端 個人としてのいびつな部分は薄められ、ひどく一般的で普遍的な会話に終始する。特に 会社の1時間の昼休みのような時間には。

この日は 同僚のKさんが 家で作ってきたお弁当を食べながら、それを詰めてきたランチボックス(LB)について「日曜に東急ハンズに行って来て、新しく買ったんですよー」などと嬉しそうに話している。そして 持ち帰るときに便利だからやはりLBは二段式が良い、とか、このLBにはフォークも付属しているので尚更良い、とか、そういうことを漫然と語り、脇に置かれたLBの蓋を誰かがひっくり返して「蓋の絵も可愛い」などと合いの手を入れている。わたしは蓋の絵は見なかったけれど、東急ハンズで買った弁当箱の蓋の絵なんか どんな絵だって可愛いとは信じられないし、仮に自分が週末に新しい弁当箱を購入し、月曜にそれを早速会社に持参したとしても、とても皆に触れ回る気にはなれない、というより、前髪を切ったとか ブーツを買ったとか、そういう物質的な会話なんて(そのレベルのくだらない会話ができるほどの親しい相手に対してでなければ)どんなに話題に事欠いたとしたって 絶対に触れたくないと思うのだけど、そんな些細なことにさえ偏屈では、とても女子的な集団世界を横断していくことはできないので、横断する気も更々ない自分は 目の前のampm製のプラスチック味の食物を黙々と咀嚼する。なんていうのだろう 弁当箱の話を楽しげにすること自体に敵意を持っているわけではなくて、どんなひとでもほんとうは「弁当箱を買った」というよりはもっと話すべきことを持っているはずなのに、誰に押し付けられてもいないのに 集団の一員になった途端自動的に、平坦で一般化された自分を表してしまう、そういうことに対してうんざりするのだ。

WRは残業で遅くなるとのこと。渋谷の西武で化粧品の買い足しをして家に帰る。ステンレスの大鍋にゆうにあと3日分は残っている作り置きのカレーを食べて、本を読む。クッツェーの「少年時代」。幼い頃 自我の大半を占めていた、他者に対しての鮮烈過ぎる「恥」の感覚や、家族への憎悪の感情、校庭を裸足で駆けさせられた足の裏の痛さまで クッツェー回顧録は、悉く「ああ わたしもそれを全部知ってる」と感じさせてくれる。こういう場合の共感は、言うまでもなく 読んでいるわたしが特別なのではなく、それを描き出す作者の才気が特別なのだけど。

夜遅い時間にWRが帰ってきた。明日は何でもないふつうの日だけど、ふたりとも休暇を取ったので、平日の町をぶらぶら出歩く予定。


読んでいる本

少年時代 (Lettres)

少年時代 (Lettres)