自主的な祭日

WRと結託して有休を取得。しかし、至るところに落とし穴が待ち構えていた。

平日にしかできない 公共機関や銀行への名義変更の届出をまとめて済まそう、と考えていたのに、新しい名字の印鑑の用意をすっかり忘却していた為、その目論見は何一つ成就せず。例えば クレジットカードで支払いをしている生命保険があったとすると、どちらの名義を先に変更すべきなのかわからなくて、たちまち混乱に陥る。“鶏が先か 卵が先か”という気分でもあるし、“PCが壊れたのでDELLのあたらしいPCを買おうとしたら、ネット申し込みでしか買えないと云われた”気分ともいえる。学校を出たら二十歳そこそこでお嫁に行った古代ならいざ知らず、現代の女は氏名に依存した社会的契約で雁字搦めで、これらすべての手続きを終えるのと寿命が来るのとどっちが早いだろうか、とすら思ってしまうほど。しかし WRの名義であたらしい口座を作ることには難なく成功した。そのまま銀行を出て、六本木へ向かう。

午後は2つのピカソ展鑑賞に費やすつもりが、美術館は閉館日だった。ふたりして 改札をくぐったところで「本日休館」の貼り紙に気づいて、がっかり。普段、こういう失敗は少ないほうだと思うのだけど、未だに自宅にネットが開通していないこともあり、重要な情報がところどころで零れ落ちてしまう。それにしても 火曜定休だなんて、美術館は美容院のようだ(ということは、美容師が美術館に行ける機会は月に1度か2度しか無いのかもしれない。絵が好きなひとは美容師になるべきではなさそうだ)

せっかく六本木まで来たことだし、母の誕生日プレゼントでも探そうと、ミッドランドスクエア内のお店をぐるりと見てまわる。WRはミュージアムショップで まだ見てもいない「2008 Tokyo Picasso」の図録を購入していた。買った本を入れる袋が 何の印刷もない透明のビニールなので、何を買ったか、丸わかりによくわかる。休館日に 図録だけ買って帰るひとの姿は秋の夕暮れのようにもの悲しい。

ピカソの予定が無くなったので、こんなときでなければなかなか観ない新作映画を見に渋谷へ移動。乃木坂から代々木公園まで地下鉄に乗り、渋谷の街を斜めに大きく横切って、映画館のあるほうを目指す。観たのは「ブロードウェイブロードウェイ」。サービスデイで料金が安い為か、平日の昼間なのに場内は満席。映画は面白かった。上映直前に見た映画のチラシには“ひたむきに夢を追うことの素晴らしさ”という言葉がずらりと並んでいたけど、映画に映っていたのは 夢を追うひとの素顔や舞台裏ではなく、単にオーディションそのものだったので、そのことがよかった。オーディションは演じるひとの素顔を見せる場所や舞台裏でなく、そこが人生の本番そのもので、“コーラスライン”の世界そのままに、幾つもの物語が入れ子のように響きあう。読後感の物足りなさは「あとは舞台を見てください」ということだろうか。ピカソの代わりはこの世になくとも、たまには新作映画を観るのも楽しい。

休みの日くらい 帰宅ラッシュの前に家に帰りたいと思う。渋谷駅の岡本太郎井の頭線連結口に設置された壁画“明日への神話”)を遠巻きにさささ、と眺めてから、電車に乗った。中央に描かれた 感電した骸骨みたいなひとの絵が、妙に怖くてへんな感じ。芸術に対して「〜みたい」という表現は もっともそぐわないものだろうけど、これもゲルニカみたいなもの?とどうしてもそういう風に思ってしまう。帰宅して、WRが買ったピカソの図録とねこの人形をベッドに持ち込んでパラパラとめくり、面白い絵を発見しては「…意味わかんない」とひとりごち、キャッキャと笑う。

ピカソの凄いところは(今さら言うことは何もないけど)音楽でも文学でもどの分野においても その時代ごとにかならず現れる天才と呼ばれる人々が 寄ってたかって作っては壊し、進化しては退化しながら繋いできた何十年・何百年単位の芸術の変遷を、彼ひとりの生涯で成し遂げているということだ。このことがいちばん凄いところだし、興味が尽きることのない理由だと思う。ピカソの図録をぼーっとして眺めているだけでも、芸術行為にはじまり(生)もおわり(死)もなく、ただ常に変化していくだけだ、と思い知る。


今回は来日していないけれど、青の時代で好きな絵といえば、これ。

この夜も もう作って何日目かもわからなくなってしまった“庶民のカレー”を食べる。明日は仕事だね、早起きだね週の真ん中だね考えると嫌になるね毎日おうちに閉じこもって本が読みたい!とWRにこぼしながらベッドに入る。ねこ人形を動かして“コーラスライン”の真似をする。ねこたちは、ぽちゃぽちゃと丸い体型なので、容易には足が動かない。毛布がこの上もなく似合う夜。おやすみなさい。