彼女もネコが好き

3連休の初日。この日というよりこの連休のメインイベントは、キャロルキングのライブ。9月 ちょうど羽田で出雲行きの飛行機を待つ待ち時間に、携帯で何度もチケットダイヤルを呼び出してチケットをとったのだった。ライブは夕方からなので、午後まで暖かくした部屋にこもって珈琲を飲んで、寝たり起きたりしながら本を読む。冬は 外に出て遊ばなくちゃいけない理由が何処にもないから好き。WRが解凍してお皿に盛り付けてくれたチャーハンを食べて、ようやく外の世界に出る支度。これから本物を聴くというのに、キャロルの曲ばかりを 執拗に再生してしまう。

ライブを観るのは、スライ以来の国際フォーラム。会場に入る前に、颯爽と紙コップで出てくる式の自販機へ突き進み、赤ぶどうジュースを飲む(気に入った)。

ライブは感動的だった。感動的といっても、もちろん感動目的の一切の趣向は凝らされない、グランドピアノが一台あるだけの、たったそれだけのステージだったけれど、彼女の歌声とピアノは、この世の何にも代えがたいと言ってよいほど、力強くてただ感動的だった。まっすぐに響いてくるのは紛れもない歌なのだけれど、もっと本質的な、歌の中心を芯のように貫いている“声”そのものに、心をとらえられてしまう。レコードで再生される“曲の良さ”と、直に触れるこの“声”はまったく別のものなのに、全然無関係なこの2つが同じ瞬間に決定的に両立している。キャロルキングは 女性とかシンガーという括りから すっかりかけ離れた、力強く自由な存在だった。2ヶ月前に 同じ会場でスライを観たとき、彼のステージを眺めながら レコードから再生されるあの躍動感(声)やそれに近いと感じるものを、何としてでも抽出しようと、ほとんど必死になり、見終わったあと何だか収まりの悪いぐにゃぐにゃな気分になったことを思い出して、可笑しくなる。キャロルキングは(生で見るのははじめてだけど)在りし日を見出すなんてことが思い浮かばないくらいプロフェッショナルで、彼女の66歳(!)のプロフェッショナルは、天才の所業としか考えられない。若い頃に書いた曲が素晴らしかった、というだけでは、その素晴らしさに変わりがなくても、そのひとの現在には興味が持てない。キャロルキングの私生活は全然知らないけれど、きっと彼女は 良いときも悪いときも 自分の使命と向きあいつづけてきたひとだと思える。音楽を超えて、わたしはわたしの矮小な価値観を揺さぶられたようだ。日比谷の街の石畳を靴を鳴らして通り抜け、急ぎ足で地下鉄に乗り込む。WRとさっきのライブの感想を色々と話したけれど、結局「素晴らしかった」という以外、もう何を話したか憶えていない。

音楽を聴いた夜は、お酒を飲みたい。音楽を聴いたあとのふわふわとした足取りのまま、イタリアン・バルに立ち寄った。魚介も仔羊もワインも、何もかもがこじんまりとして美味しい。一緒に暮らすようになっていよいよわかってきたけど、WRは食べる量も飲む量も、女の子並みでまったく問題ないらしい。というわけで、神楽坂のスペイン・バルに続いて、イタリアン・バルも今後は行きつけの店になりそう。
エノトリア・ディアーナ http://www.unimat-caravan.com/cr/diana/