悲劇のたんじょう

前日に引き続き 年賀状の宛名書きや各種配送手配で忙殺。結局 名刺スキャナがあまりにも役立たずなので、住所録は エクセルで手打ち。蕎麦やうどんだけにとどまらず、住所録まで手打ちするのが 最先端のロハス。手打ち住所録を 葉書の雛形に投入しても、レイアウトはズレまくるしほとんど「自動」の意味がない。結局 下準備の住所録だけでなく 年賀状自身への宛名書きも手打ちリスクからは免れないし、もうこんなことならいっそ どこからともなく硯と墨汁をとりだして、筆文字で書いてしまえ!と思ってしまう。わたしは会社にいる間 新聞全紙をくまなく読みふけっても、音楽雑誌を切り抜いてミュージシャンかるたを作っていても、共有フォルダにねこの写真を集めたアルバムを作っていても、ぜったいに叱られないタイプなので、オフィスでの筆記用具をPCから半紙と墨に変更しても、多分何の問題もないような気がする。

夜は恵比寿でWRの同僚の飲み会に混ざる。とはいえ もう会うのは3回目、4回目のひとばかりだし わたしが得意(自由闊達)な同年代や年下ばかりなので、緊張しないしとても気は楽。自分の会社の面々はなんとなく「逃げ道がない」という抑圧があって、よほど気が合うひとでないとこうはいかないのだけれども。

WRの同僚のひとりに Mくんという男の子がいて、このMくんの彼女がどうにも猟奇的なスイーツで、Mくんが飲み会などに来ているこんな夜は、プレッシャーのメール攻撃が凄まじく、Mくんはお酒を飲みながらも 片時も携帯を手放さない。この夜も 携帯が光るや否や 条件反射でメールチェックに入るMくんを皆で批評しあって、おおいに盛り上がる。その場にいないMくんの彼女(のメールやふだんの言動)が、飲み会の主役になるという、わけのわからない事態。Mくんは メールの雰囲気や使う絵文字の種類で 彼女の機嫌が瞬時にわかるらしく「やばい。音符マークがついてる。もう終わりだ」とか「うわ、さっきまで2分毎にメール来てたのに もう4分も届いてない…怒ってるのか?」とか 我々常人にはまったく理解不能な言葉を口走っては 狼狽したり落胆したり、ひとり苦悩しつづけている。東大卒というわりに“彼氏”というファクターで切り取ったとき、Mくんほど馬鹿みたいな“彼氏”は未だかつて見たことがない。Mくんが目の前の飲み会を楽しんでいるところを未だかつて誰も見たことがなく、飲み会で携帯を握っていないMくんを見たひとも、この世にひとりもいないのだそうだ。それにしても、みんなにアドバイスを求めて彼女にメールの返事を書いては どんどん彼女を逆上させ冗長させ、テンションが落ちていくMくんの姿は、失礼ながらほんとうに面白かった。WRは Mくんの彼女の怨念のこもったメールをたった一行見せられただけで、恐怖のあまり凍りついていたけれども。

この日集まったお店は、偶然にも9月のこの日(http://d.hatena.ne.jp/nekkorogirl/20080929)にも訪れた店。ここは雰囲気もよいし、食事も全然高くないのにとても美味しい。そしてこの夜も9月に来たときも 1年前に同じビルに入っているオイスター・バーにWRの誕生日の食事に来たときも、とにかく此の場所に来る夜は いつもいつも雨がどしゃ降り。同じく家が近いひとと乗り合わせて、真夜中のタクシーで 家に帰る。まともな会話ができた記憶は殆どないけど、なかなか 抱腹絶倒の夜だった。それにしても 恋人同士の在り方というのは、色々だと思う。色々といっても、恋人同士が100いたら、100通りの在り方がある、という意味ではなくって、100組の恋人同士がいても、多分関係性というものは(わたしは血液型は信じてないけど)血液型の分類みたいに、せいぜい4通りか5通りのパターンに大別できる。わたしが望む在り方と、そうでないものを望むひとびとが望むものについて、またひとつ考察が深まった。