朝の断片

そういえば、ここ一年ほどのあいだ、ズボンをまったく履いてなかった。服の山を掘り起こしているうちに、ジーパン(スキニージーンズ)が発掘されたので、それを履いて出勤しようとしていたら、WRが「あ!雪んこがズボン履いてる!」「おしゃれだね」と言ったあと さらに嬉しそうに「雪んこ ピーターパンみたい!」などと言うのだ。

そう言われたら しないわけにはいかないので、反射的にピーターパンの演技(ピーターパンの言いそうな台詞がよくわからないので とりあえず「ピーターパンだよ!」と連呼しながらミュージカル風のパフォーマンスをする)をしてしまったけれども、頭のなかでは 高速でクエスチョンマークが旋回していた。WRの表情や口調から 褒め言葉であることは明白なのだけど、ピーターパンって……。

ピーターパン発言のあまりの衝撃に、結局 ジーパンはやめにして いつも通りスカートに分厚いタイツで出勤。立体的なかたちを保ちながら脱ぎ捨てられたジーパン(ピーターパンの抜け殻)が、陽の当たらない和室に打ち棄てられている姿は、妙にもの悲しかった。

枕元にノートPCを持ち込んで、パジャマ姿でうつ伏せの姿勢で 鬱々としごとをしたり日記(とはとても呼べないもの。日ごとに変わるものが何もないから。実際に言葉に出せたとしたら、発生した瞬間に たちまち拡散して消滅するような ただの感情の起伏のようなもの)を書いていたときとは 今はもう何もかもが違う。何もかもが違う、と言葉にしてしまうとすぐに、だけど何も違わないし変わらない、と思うけれども、少なくとも表層においては 何もかも違う。今はちゃんとふつうのひとと会話ができるふつうのひとで(まったくへいきではないけれど)心にもないことにも 相槌を打ったり とか できる。とくに死にたくもないし、人は怠惰というかもしれないけど わたしのなかの厳しい戒律に法った 残酷な習慣を自分自身に課したりもしない。苦痛の種は変わらず存在しつづける けれど それを極力感じないように生きることもできる、意図的に麻痺させるという一連の所業は、鈍感になることではなく 鋭敏でいなければ不可能なことだ。夜になって、雨が降って、こういう帰り道に限って、わざと遠くの踏切まで回避したのに、遮断機が永遠に上がらない。白菜と牡蠣の蒸し物と、カジキのソテーにインゲンを添えたやつをつくる。WRがひとりで食べる食事はいつもラーメンとかハンバーガーとか そういう簡単なものばかりらしい。家にいるときくらい、魚の栄養を摂取しなくては。炊飯器のモードが 玄米モードになっていて、炊き上がったお米の底が お焦げを通り越して黒焦げになっていた。

この日の朝は WRがいつもより1時間半も早起きをして、はじめて同じ路線の同じ電車で出勤した。電車の中で 慶應幼稚舎のランドセルを背負った生徒が、立ったまま一心不乱に漫画本を読み耽っている。WRと小声で「学校に 漫画持っていっちゃいけないのにね」と囁き合いつつ、真下に開かれた頁に目を落とすと、絵のタッチは“悪い意味できれいないまどきの感じ(「テニスの王子様」っぽい絵柄)”なんだけど、驚くべきことにその内容が れっきとした「原爆漫画」だったので わたしたちはカルチャーショックを受けた。

わたしたちの幼少期、原爆漫画といえば「はだしのゲン」と相場が決まっていて、しかもそれは当時唯一図書室で所蔵を許されていた漫画でもあった為、全校生徒にまわし読みされまくって 他のどんな本よりもボロボロに傷み、手垢や雑菌に塗れ、綴じ紐や背表紙も外れかけた瀕死の状態で、原爆の悲惨さを訴えたおどろおどろしい内容も去ることながら、その本自体がなんというか「被爆」を象徴するという特異な運命を背負った書物(漫画本)だったのであった。さらには 学校内で合法的に読める唯一の漫画本を奪い合う男子生徒らの姿もまた 図らずも「はだしのゲン」のメタファとなっていたことは言うまでもない。あれから20年。清潔な電車の中で 幼稚舎の制帽を着用したつるつるの小学生は、「グゲゲゲ」「ギギギギ」「グゴーーッッ」等の擬音がいっさい登場しない、極度に無菌化された原爆漫画を読んでいる。原爆漫画というより、まるで未来漫画のようだ。

「〜の歴史を風化させるな」とはよく言われるけれども、どんなに大きな出来事であっても、歴史が未来に向かって広がってゆく限り、その時々の世の中によって解釈は変わり、記述も変わり、10年や20年の区切りがくるたびに 風化させるな、という声があがって、それを繰り返しているうちに、やがて当事者はひとりも居なくなる。この一連の流れが「風化」ということで、だからきっと「はだしのゲン」が出た当初は「原爆を漫画に描くなんて不謹慎だ」と云われたであろうし、今朝の無菌培養の原爆漫画とも、まったくひとつづきの同じ脈裡の中にあるのだろうけど。電車が目的地に着き、乗り換えの連絡通路を歩きながらもまだ漫画から目を離さない小学生を見送りつつ、WRは「あの漫画の無菌室的清潔感は、まさしく今後のあいつの慶應ボーイ人生を象徴している……ムムムムム」と呟きながら、別の乗り換え場目指して人混みに消えていった。