langue de chat/ラングドシャ

テレビは見ないけど (仕事上のひつようで)新聞はとてもよく読む。ここ数日で記憶に残ったニュースをちょっと思い出してみると、「誕生日に驚くようなことをする」と周囲に漏らしていた欧州の学生がじぶんの首吊り自殺をネットでライブ中継した、とか 日本のどこかのご老人が 金庫代わりに庭に埋めて隠していた3億円だか4億円だかが何者かに盗まれた、とか 社会面のカセットテープくらいの大きさの枠の中に書かれているような、そういう類の事件だったりする。どちらも社会的に影響が強い出来事というよりは、むしろ個人の特異性のようなものを 突きつけてくる。そして この手の“ちょっと驚くような事件”というのは、見聞きした瞬間は「ん?なあにそれ」と思うのだけど、すぐに、すんなりと、“現実”に抱合されてしまう。水面に投げられた小石と同じで、石が沈んでゆくのと同じはやさで、水面の波紋も じきに落ち着き元通りになる。

埋蔵金を盗まれたご老人の話で「へぇ」と思ったのは、埋蔵金の額でも それが盗まれたという事実でもなくて、記事の最後の一文に「尚、届出人の男性は2ヵ月後に死去」とあったこと。記事の見出しでは 庭や億単位の金額にばかり触れられているけど、わたしからすると、その最後の一文のほうが俄然 鮮烈な事実と思える。80歳代と報じられたその方は、警察に「老後の為の蓄えだった」と話していたそうだけど、盗難のショックで気落ちして寿命を縮めてしまったのだろうか?結果として「老後の蓄え」は必要なかったということになるけれど…… 80歳の考える“老後”が何歳を指すのか、ということはあまり疑問に思わない、というか この国の現状では たとえどんな資産家でも、死ぬ瞬間まで老後が不安だと思う……

首吊り中継の若者と 埋蔵金の老人の話は、両者が正反対なのか よく似ているのかはよくわからないけれど、(それが可能かどうかも含めて)生死をコントロールするということについて、深く考えさせられる。死はいつやってくるかわからない、だからこそ 死ぬまでお金は大切なのだし、死がいつやってくるかわからないからこそ 自殺しなければならない(と思い込んでしまう)ひともいるのだ。死んでしまえば ディスプレイの向こうのひとが ほんとうに驚いたかどうか、わかるはずもないけど。人間の行動原理は性欲だ、とよく言われるけど、性欲があるのは死が避けられないからで、だから人間の根幹にあるのは いつかかならず死ぬ、という事実だけだ。人間の根幹に死があるとして、では死とは何か、と考えると それは単なる生理現象でしかない。人間が死についてこんなに深く考えたり苦悩したり精神的ダメージを被ったり 或いはそれに導かれて芸術活動に昇華させたり、ありとあらゆる方法で翻弄されているというのに、死はただの生理現象で、悩んだり努力したりした程度に応じてかならず何かを与えてくれるわけでもないし、そもそも死が人間に何らかの啓示や示唆を与えてくれる、などという考え自体が 人間の一方的な思い込みや妄想に過ぎない。人間は死を想うけれど、死は人間を想わない。死は人間の呼びかけに対して、ほんの僅かでも反応を見せることはない。この関係性の希薄さは 信仰における 神と人間の関係にも似ている。信じても信じても信じても信じても、わたしたちの期待通りや都合通りにこたえてくれはしない。だからこそ神聖なもの、ということになるのだろうけど、この世に僅かなほんとうのもの、ほんとうのことというのは、ぜんぶそれに近いことだと感じる。

しごとはまったく平凡。昨日、今日と連続で 同期のSMさんと帰りの電車が同じになり、社内での出来事をお喋りしながら帰宅。WRもとうぜんのように残業なので、エアコンを入れているわりにいつまでたっても暖まらない部屋の中で ブランケットに包まって 難民のような姿で帰宅を待った。ひさしぶりに母に電話。話している途中で WRが ばかでかい声で「おつとめー!!!」と叫びながら帰ってきたので、電話口の母は 意表を突かれ、アングリとしていた。「おつとめ」とは、長時間のお勤めからやっと解放された自分をねぎらう為に、且つ「ただいま」「おつかれ」という一連の挨拶をまとめたものとして、自然発生的に口から叫び出たらしい。電話の向こうにいるひとに聞かれたくないタイプの造語だ。