わたしのともだち

そういえばこの前ね、


髪を切らなくちゃ、と思って、そのときふいに いつも通っている美容院ではなく、なんとなく「床屋」というものを体験してみたくなり、適度に郊外の適度に賑やかな とある駅前の床屋にふらりと入ってみたのだった。

床屋は、中に入ると カット椅子が10客くらいズラリと並んでいる広い床屋で、それでわたしは順番待ちの紙にボールペンで名前を書いて、待ち合いのソファに座って週間の漫画雑誌を読んでいた。待ち合いコーナーには 古くさい観葉植物の鉢と水槽があり、水槽の中にはグッピーや 名前のわからない熱帯魚がピッピッと泳いでいる。ローテーブルの上には 透明硝子製の ずしりと重い灰皿があった。へぇ 今時まだこういう場所でタバコ吸えるんだ、時が止まってるわけね、と 意識の裏側でぼーっと考え、こういう漫画雑誌って 読める漫画が全然ないや、と雑誌を閉じてブックラックに戻したのと殆ど同じタイミングで名前を呼ばれた。

案内されるがままに椅子に腰掛けて、顔に布をかけられ、洗髪がはじまると、気持ちよさのあまりうっかり眠りこんでしまった。目を覚ますと、もう洗髪が終わり髪も乾いているどころか、カットも8割方終了しているほど、工程が進んでいたらしい。思わず鏡を見て「ギャア」と叫んでしまった。わたしの長い髪はすっかりなくなって、スポーツ刈りというか 五分刈りというか 刈上げというか モヒカンというか……その全部をあますところなく融合させたような、珍奇極まりない頭になり果てていたのであった。要は 頭のある部分は坊主、ある部分は刈上げ、しかしある部分はロングヘアをそのまま残すなど、すべての局所が局所的に異常なのだ。あまりのことにワナワナとなっていると、鏡越しの床屋が「このヘアスタイルは、頭のまるさを地球に見立て、壮大に枯山水を表現した、画期的なものになっておりまして……」等と、あたかもアーティストのように説明しはじめた。

そんな御託は1秒も聞いていられないので「ひとの頭を使って なんでこんな勝手なことするんですか?」「断固 元に戻してもらいます」と とうぜん毅然として抗議したけれども、すると 床屋のおっさんは急に表情を変えて「お客さん バカ言っちゃ困りますよ。オーダーシートに書いてある通りにしたまでだよ」「うちはお客の回転をオートメーションで効率化してるんですよ。シートに書いてある通りにやるまでですよ。」と反論してきた。オーダーシート?何?何のこと?と混乱していると、順番待ちのときに名前を書いた用紙を出してきて「ホラ あんたの名前の横にちゃんと書いてある」と言うのだ。用紙を見ると、たしかに わたしの名前の横の欄に「枯山水(オマカセ)」と汚い字で書いてある!その筆跡は あきらかにわたしの下に名前を書いたひとのものだ。

上に書いたわたしが オーダー欄を空欄にしていた為に 下のひとが 誤ってひとつ詰めて書いてしまったのだろう。じぶんが悪い、と思った。じぶんが悪いけど、それにしてもこのヘアスタイルはありえなすぎる。泣きながら「ボウズにしてください」とオーダーした、



という夢を見た。こわいよね。

木曜。曇り時々小雨。夜 友紀ちゃんと銀座で会う。お鮨か小籠包かを少々決めかね 迷ったあと、小籠包が美味しい中国料理の店に入る。友紀ちゃんからイタリア出張のお土産に加えて、2ヶ月遅れの誕生日プレゼントまで頂いた。うれしい!友紀ちゃんはわたしの趣味を 完全に熟知している。10代後半からの長い付き合いだから……、とつい考えそうになるけど じぶんの親兄弟について思い出すと趣味・好みの把握というのは付き合いの長さ云々などという野暮なことじゃなく、単に センスというか才能だと思う。他人について あのひとはきっとこんなの好きそう、とか こういうのってあのひとのイメージだよね、という“確固たる、漠然としたイメージ”は誰の中にもあるものだけれど、その“漠然としたイメージ”を「これだ」という形にして的確に表現できるひとは、あまりいないと思える。あらゆる芸術的センスと同様、贈り物のセンスというのも天性に近い。黒に金色の鋲のピアス、チョコレート、ねこの絵葉書、カンガルーのメジャー、ミュージアムの消しゴム、頂いた物をこうやって羅列するとおもちゃ箱の中身のようにめちゃくちゃだけど、どれもわたしが思うきれいだったり可愛いだったり面白いだったりするものなので、すごく気に入っている。

猫のひたいほどのテーブルに、点心の蒸篭やお料理のお皿がひしめき合った夜。小籠包ってやっぱり美味しい。お菓子みたいな見た目も良い。今度はお鮨を食べにいかなくちゃ!