あひるのうた

漫然としたウィークデイがはじまる。部長の機嫌は芳しくないが、それを加味しても平和で平凡な日々。こうして時の流れに身を委ね、渡すものも得るものも少ないが、少ないながらも幸福に、齢をとってゆくこともできる。強烈な成功や強烈な幸福(そして必然的にそれに匹敵する強烈な失敗だとか強烈な不幸)を腹の底では常に切望している、というのが正直なところ 人間の本質であろうというのに、ささやかな葛藤やささやかな満足、その繰り返しが人間の幸福というものよ、という安全で汎用性の高い説をみすみす採用し 他人や自分に信じ込ませるのは、とんだ偽善で嘘くさい気がする。自分自身が強烈な体験を諦めきれず、ささやかな何とやらを本気で本気にしてはいないというのに。まったく、人の欲望は はかりしれない。即物的な欲望なんかは 話にならないほど原始的な可愛いもので、もう二度と目の前に現れないあのひとの心を動かしたいだとか、才能を発揮して発揮してただ発揮し続けたいだとか、精神的な欲求になればなるほど、増えたり減ったりが目に見えないだけ、それが尽きるということがない。悟りの境地には何も無いっていうけど、欲しないことに依存しているとしか思えない そうでないなら死と同じなのか 誰もがかならず死に絶えるのに、生きながら死ぬのって何の意味があるのだろうか したいだけなのだろうか 意思と欲求はどう違うか 繊細で脆弱なように見えて、結局のところ凄く健全で強いひとが良い 何がどうあれ 結局のところ、で納得せざるをえない何かがあれば、結局のところ 許してしまえるし、承認してしまう Nさんのお腹の中の胎児が日に日に丸味を増幅させてせり出てきている 平坦な土地に別の惑星が埋まっていたかのようだ ランチタイム 今日は5人で食べているように見えて、実は6人いるのがこわい 6人目が参加している なんで誰も気づかないの

いつも通りとっとと帰宅。途中 山手線が止まって、げんなり。夕食はニラと豚肉と卵の炒め物、鯵のお刺身、茄子のお味噌汁。帰宅後コートを着たままさっさと作り終えて、ねこたちとゴロゴロ転がって遊んでいたら、WRが帰ってくる直前に炊飯器のスイッチを押していないことに気がついて、ガーン!となる。

ごはんを食べながら、村上春樹エルサレム賞受賞のニュースを見る。村上春樹ももう還暦か。何のかんのと言いながら、日本の現役作家で、作品への姿勢とキャリアと振る舞いが 小説家ではなく文学者のそれに見えるのは、大江健三郎とこのひとだけ。そして村上春樹阿久悠に似ているな。動画で全身くまなく見ると、ますます似ている。似ている話ついでにWRに「ねぇ 誰に似てるって言われる?」と訊いてみると「……小沢健二草野正宗と皇太子」とのレスポンスで、思わず爆笑。もう金輪際 皇太子にしか見えない。でもわたしがいちばんWRに似ていると思うのは、あひる もしくは コッペパンのえかきうた

棒がいっぽんあったとさ

葉っぱかな 葉っぱじゃないよ かえるだよ

かえるじゃないよ あひるだよ

6月6日に 雨がざあざあ降ってきて

三角定規にヒビいって

あんぱん2つ まめ3つ

コッペパン1つ くださいな

あっというまにコックさん