間違えてるのはむかしから

ふつうにげんきなのでふつうに出社しているものの、やはり内臓の奥底に昨日の疲弊が溜まっているのだろう、集中力を欠いた、蛻の殻人間として一日を過ごしてしまった。めずらしく、会社でも遊びでも家のなかでも、嫌なことばかりが勃発する。悪気がありそうなことも 絶対に無いと言い切れることもぜんぶひっくるめて、とにかく不運な出来事ばかりがたたみかけるように勃発するので、別に死ぬ気はないが、もっとも死んで問題のない時期というのがあるならそれは今だ、と考えた。雑誌の記事や宣伝で とある友人の仕事振りを目にして、ナイフでグサリグサリと心臓を突き刺されている気になった。世の中のキャッチコピーは キャッチコピーである時点ですべて最悪だと言い切れるけど、そこに踊っていたキャッチコピーのあまりの劣悪さに、反射的に、完全に、「こんな世界は要らないや」と わかってしまったのだった。不特定多数の為の言葉なんて、どんなに言葉にそっくりな形をしていたって、言葉ではない。言葉などであるはずもない。“すべてが詰まった”だなんて、それだけを見ても、それは嘘だ、とわかる。すべてだなんて、わたしにだってわからないのに。どうして顔も見えないひとたちに“此処にすべてがある”だなんて、言えるのだろうか。嘘つき 嘘つき だいきらい。

たのしいひととのたのしい時間や 愛せるものは 昨日までと変わらず存在するさ。だけど、こんなふうに どこまでも暗く沈んでゆくこの憂鬱こそ、唯一 自分が所有していると信じられるものだとも思う。束の間 うっかり忘れていただけで、わたしはずっとこうだった。

小雨の中 まこっちゃん いしいさんと近所の美味しいお好み焼きへ。自分の馬鹿げた日常のことになどに 何一つ触れなくたって、たのしくおもしろく会話できるひとたちがいてくれることを嬉しく思う。閉店時間でお店を追い出されて、終電間際の電車でちょうど帰ってきていたWRと3人で、うちで熱い濃い珈琲を飲む。まこっちゃんは外人の親戚たちを富士登山に案内して帰ってきた日で、いしいさんは 上海への出発前夜。わたしだけは、何処にも行かない。店閉まいした後のねこカフェで駆け回るねこたちを、ガラス越しに観察。通りすがりの外国人も混じって、東西ねこ談義に花を咲かせる。チンチラシルバーが(可愛さと言う意味で)地上最強生命体だけど、やはりスコティッシュの実力も認めざるをえないよね、等々。ねこの好きなひとはいい。