春の妖気

土曜日。忙しいWRは、正午前に仕事に出掛けたらしい。わたしは途中何度か目を醒ましつつ、午後3時まで 春の陽射しも差し込まない、カーテンを閉め切った寝室のくしゃくしゃの毛布に包まって、うとうとと眠る。17時から歯医者。さすがに遅刻しないだろうと思って、店じまい間近の最終受付に予約を入れたのだけど、2時間前に目を覚まして、だらだらしながらシャワーを浴びたり 髪を梳いたりしているうちに、あっという間に家を出なければならない時刻になって、焦る。時間を知る為にたまたま点けた民放で、外科医のドラマの再放送のようなものをやっていて、ついうっかり一話分全部見てしまった。いつもはテレビドラマにまったく夢中になれない。ドライヤーを使ったり、化粧をしたりしながらぼーっと眺めていただけだけど、主人公をずっと小泉元首相の息子だと思って見ていて、最後のほうで何か似た感じだけど違うひとではないか?と気がついた。でも、本当の俳優の名前は知らないし調べてもいないので、やっぱり小泉元首相の息子だったかもしれない。真相は一生わからないままだと思うけど、そんなのこと 四歩歩けば完全に忘却の彼方であろう、絶望的にどうでもいい問題だ。

土曜日の歯医者は空いていた。化膿しているところをまた洗浄して、終わり。せっかく外に出掛けたことだし、春の洋服でも見て帰ろうか、と思ったけれど、そう思った瞬間に面倒くさく、何も要らない、と思い、一刻もはやく、という気分で家に帰った。

おなかすいた、と思いながらも飽きもせずまたベッドに潜りこむ。WRが休日出勤とレコード屋立ち寄りから帰宅して、その物音で漸く目を覚ますと20時。すっかり夜になっている。隣の駅に、昨日SMさんが「美味しい」と言っていた台湾料理のお店があるので、WRとふたり、夜の散歩ついでに夕食に行く。小さい駅の、小さい店なのに、活気がある。小龍包と辛い麺を食べる。満腹になった。大通りに面したガラス貼りの店内から、近隣のスナックから出てきた年老いたマダムと年老いたお客さんの姿が見えて、着物を着たマダムも ステッキをついた男性客も、ほんとうに、完全に、ヨボヨボに年老いているので、ガラス越しに見えるその光景は、つげ義春的でもあるし、昭和とか戦後とかの匂いもする。田舎の温泉宿の、ベルベッドのカーテンの向こう側を覗くみたいな心境になる。

一駅分の区間を、またWRと歩いて帰る。野良猫が 跳ねた足取りで目の前を横切る。通り過ぎたあと、こっちを向いて、キョトンと首を傾げて見ている。わたしたちが喜ばないわけがない。途中、まっすぐの路地を突き抜けようとしたら行き止まりで、三歩戻って隣の路地を進もうとしたら、そちらも行き止まりらしく、WRとふたりで「こっちも行き止まりだ!」と話していると、腰が曲がった、魔女みたいな顔の老婆がわたしたちの背後から音もなく現れて、わたしたちの顔を下からヌーッと覗き込み、その姿勢のまま3秒くらい ピタリと止まった。恐ろしさ、というか訳のわからなさとそのババアの妖気のあまり、3秒ほどのその時間が、永遠にも感じられた。息の根が止まるかと思った。「お若い方、そこは行き止まりですよ」と言いたかったのだろうか。それとも「何を騒いでおるのじゃ」と一喝したかったのだろうか。モナリザの絵は、次の瞬間 微笑むのか 怒り出すのかわからない、すべての感情、すべての表情に繋がる可能性を秘めた一瞬の万能の表情をとらえたからこそ奇跡の絵なのだと噂に聞いたことがあるけれど、この 行き止まりに突如出現した、腰曲がり無言妖怪ババアも、ある意味モナリザ的な、人間の理解の範疇を超えた謎すぎる表情を湛えていた。WRもわたしも、まったく同じものを感じたらしく、慌ててババアから離れたあと、震え上がったし大笑いだった。この夜の散歩の帰り道では 2匹の野良猫と 1匹の飼い猫に遭遇。野良猫も、飼い猫も、わたしたちは、それが ねこ なら何だって好き。