ビートニクねこ

会社帰り 渋谷で途中下車。タワーレコードでCDと雑誌を購入し、パルコパートⅡをぶらりと一周して帰宅。鞄の中に入れている本と買った雑誌、ぜんぶ合わせると4冊分の分厚い紙の束を持ち歩いていたので、腕がとにかく重たくて痛くて、服なんてちっともゆっくり眺める気になれず、また、衣服とか靴とかアクセサリーとかを目にすると、本来すべきことのすべてに未だ手付かずでいるこのわたしが、表層を飾り立てたいと欲求するのはどういう意味か?と、途端にわたし自身へ向かう客観的な考察と詰問が開始され、急速に気持ちが醒めていく。

お洒落をすることや お洒落したい意欲を持つことが贅沢だ、と言う意味ではない。寧ろそれとは正反対で、きっと、つまらないわたしは つまらないお金と引き換えに、すぐにつまらない満足を得てしまう。そのことへの危惧がある。そんなつまらない貧しさに対して抵抗していたい。ロハス的とかエコ的な“物質主義への懐疑”とかでは全然ないんだ、ただ、つまらないお小遣いでつまらない物を手に入れて、喜んだり笑ったりしたくないだけ。そんなことより はやくあいつらがわたしを見つけて、わたしのことを 誇らしいと思って欲しい。

可能性について考えていた。可能に出来るか否かにはいっさいの興味がなく、ただひたすらに考えるのは わたしにとって何一つ不自然でない状態を保持したままで、さて、可能であるか不可なのかという、それだけの話。4月 わたしのだいきらいな4月。少なくともここ3日ほどは、朝も昼も夜も全然いつもみたいに眠たくはなくて、だからといって不眠症だとか 真夜中まで起きて本を読むわけでもなく、眠くはなくてもベッドに入ると存外にあっさりと眠れてしまうのだけど、しかし、地の底から睡魔の手が伸びてきて、肘のところをぐいっと掴まれるような、わたしにお馴染みのあの暴力的な眠気というやつは少なくとも何処にもいない。

銀色と桜色の電車の中で レオナルドフジタの素敵な絵をみた。ねこの国の世界のための絵。実際に目に映る世界より、額縁の中や 行間の中や レコードの溝の中にしか存在できない世界のほうが、1000倍も好きだ。人口10万に対しての ねこ の死亡数は870匹、殆どのねこは、路上死している。ねこの葬儀は連日行われる。わたしが生まれる前から死んだあとまで、ずっと。ねこたちの葬列の一瞬の隙間にわたしが生きて死ぬ。行き倒れたねこたちの屍骸を積み重ねてつくる、ふかふかの絨毯に沈み込んで眠ることが夢。