窓の向こう

さて月曜日。社会からは漸く連休気分も抜けつつあって、しごともちょっと忙しい。朝から夕方にかけて、頼まれ仕事を頼まれた順にこなしていったら あっという間に窓の外が暗くなってしまった。わたしの席の右側に広がる大パノラマでは、プラレールの新幹線が絶えず行き交い、曲がりくねったまま過ぎ去るモノレールが見え、ビルの間に 埋立地のテレビ局の巨大な銀色のボールが浮かんでいる。授業中も いつも窓の外ばかり眺めているこどもであったが、長い長い退屈な時間、窓の外に見えたのは、ひたすらに校庭に生い茂っている森のような木々だけで、時々 おもしろい鳥が飛んでくる日もあったけれども、朝も昼も夜も 春も夏も秋も冬も、ずっと 季節と共に移り変わる木の色を 凝視していた。それ以外には何ひとつ見るものが(見るべきものではなく見るものが!)無かったので。初夏から夏にかけての 風に揺れてさらさらという梢の音と、たとえようもないあのみどりいろのほんとうの色は、わたしがこの世で見てきたもので おそらくいちばん美しかった。17才の夏休みの補修中に、窓の外を眺めながら、このみどりいろより美しい自然って もう見ることはないと思うと思った直感が 今もまだ外れていない。今は窓の外に森など存在しようもないし、例えそれがあったとしても、そんなものを眺めているよりおもしろいことが 数え切れないほどたくさんあるよ。

細かい仕事が山積していて忙しかったけれど、今日はそれ以上に精神的にぐったり疲れた。WRの繁忙期はまだ終わらない。この日も終電近くの帰りであった。WRも 仕事疲れだけではなく、その他のことでもひどく披露している模様。わたしたちは家族なので、ねこも入れると4人家族なので、疲れたときも ひどい目に遭ってしまったときも、家族4人で乗り越えなくては。自分が生まれ育った家族が 家族原理主義を振りかざしていた一時期、その醜さは耐え難いものだったけれども、それを否定して、否定して、否定しまくってたった一人になった自分が助け合って生きていける、満足できる相手を探したら 今度はそれが家族になったというわけで、世の習いとはまったくもってシニカルなこと。わたしたちは 文学と音楽とねこと絵画が大好きです。散歩も好き。下品な話と、品のある人間たちが好き。ワインの真似をして飲むぶどうジュースが好き。WRがバンドのひとと喧嘩しただかで、クヨクヨしてちょっと泣いてた。オヤスミ。