わたしは毅然としたまま嘲笑されつづけたい

わたしが日中を過ごす会社の部署には、柱ひとつない広大なフロアに、向かい合った5組ずつのデスクが4列 島のようになって並んでいるのだけど、此の頃 仕事をしていると、後ろの席からクスクスと声を殺した忍び笑いが聞こえてくるようになった。それは40歳の女性の先輩。

新卒で何百人も入社して、途中から入るひとが殆どいない今の会社に わたしが中途から入社して一年半になる。この一年半で、景況により著しい業務再編や人員再編が行われていることもあり、わたしの仕事内容も、面接や研修の時点で聞かされていた内容から、あれよあれよという間に随分と様変わりしたようだ。わたしが応募して採用されたときの業務内容は“編集、または編集補助業務。適宜 一般事務も行うこと”という程度のものだったけれど、気づくと今では (わたしが当初想像していた編集とは違って、此処ではすべての編集工程を下請けに発注していた為に)原稿の執筆と文章校正、部長秘書、そして役員がメディアに発表するメッセージなどのゴーストライターになっている。部長は、社歴やあらゆる柵に関係なく、誰にでもチャンスを与える人物。そして、部長のこの手の恩恵にもっとも預かっているのは新参者のわたしであることは言うまでもない。年功序列などに構わず適材と見ればどんどん適所へ配置していく、部長のこんなやり方に関しては、上司の鏡だよね、と云う見方も確かにできるのだけれど、彼の権力志向と上昇志向はほんとうに強烈なので、彼は自分が率いる部署にとって、そして そのリーダーである自分にとって、もっとも実益に結びつく方法を即座に選び取っているだけだ。したがって、その枠からこぼれ落ちるひとや変化を好まないひとたちから、彼はまったく歓迎されない。

ここ何ヶ月か、役員が喋るオフィシャルな原稿は、ほぼわたしの手で「nekkorogirlの日記」を書く合間を縫って執筆されている。勿論、40歳の先輩がこの部署に異動してきてから10年以上も書き続けてきて、既にその大半が私物化された状態だった社内向けの文章にも、黙々と校正を入れている。40歳は そのことで自分の依り所を奪われたと感じたのだろうか、赤を入れた原稿を返却すると、誰かれ構わずデスクにひとを呼び止めて、校正原稿を肴に校正者ーというのはわたしのことだけどーを嘲笑するようになったのだった。わたしの背中に すべて聞こえる。くるり、と振り返って「何か 読み辛い箇所があるようでしたら、口頭で説明しますので教えてくださいね」と真っ直ぐに声をかけると、アラ、やっぱり聞こえちゃった?いけないいけない、と云わんばかりに 慌てて身をすくめるような動作をして「いえいえ、こちらの話なので、気にしないでシゴトしててクダサーイ、ウフフ フフフフ」と、意味ありげに言葉を濁した。居心地を悪くさせようとしているのだろう。彼女の演技に付き合わされているひとは、何が“こちらの話”で、何が“ウフフフ”なのかも理解しないまま、いかにも曖昧に 中立的に微笑んでいる。小学校の休み時間のときのように、なにこの地獄のような光景、と、バカバカしさで蒼ざめた脳で、考えていた。

思えば この40歳の先輩は、彼女の世界の範疇外の事柄には、すべて嘲笑で対処していた。会話の流れでテレビドラマは観ない、と云ったら大笑いされ、休日は早稲田の映画館に行く、ハリウッドはやっていない、と云ったら大笑いされ、連休は本を読んでいた、と答えると さすがインテリは素敵だわ、ねぇ皆さん、と云いながら大袈裟に笑う。彼女はわたしが愛するものについて、すべてをひとつ残らず嘲笑するだろう。岩波文庫の表紙も、わたしの住む街も、わたしがクソくだらないブログを毎晩記述していることも、前髪の長さも、tobaccojuiceのダンスも、猫よりも猫背のWRのことも、7歳の頃からわたしが何を考えて過ごしてきたかも、高円寺の公園も、ボブディランの歌の詞も、この40歳はひとつ残らず嘲笑するに違いないし、嘲笑してくれなくては、それらはぜんぶ嘘になる。

すべて すべてすべてすべてわかりきっていることだけど、神様も「そうだよ」と云うに違いないことだけど、それでも尚且つ、こちら側の世界がただしくすぐれた世界であるということを、わたしが愛するすべてのものにひとつ残らず証明しつづけるために、わたしは こいつに嘲笑されつづけなくてはいけない。義務として。ぜったいに。これは、わたしにとって改めて、ひどく大きな発見だった。世界は変わる。