木と森、コンテンポラリー

今日は社内向けのプレゼンの為に、通常業務がひとまず片付いた頃を見計って 21時までずっとPPT資料を作成していた。30枚くらいの資料がひと通りかたちになったあとは微調整を重ねていくわけだけど、最期のほうのわたしの心は、すっかり プロの塗り絵師のそれであった。

とあるキーワードを楕円で囲み、その楕円の下に 長方形のライン引いて補足項目を付け足したら、その丸と棒の図形が偶然「木」のようになったので、もちろんくすんだ色味で緑と茶色に着色した。プレゼン内容は、木とはまったくの無関係だけど、木の絵になったので、木の絵の下の空白は、深い森のふかふかの土をイメージしてこげ茶とする。ただの緑の木ではつまらないので、木の下には無意味にりんごを散らし(嵐のあとの静けさを表現)、うさぎとリスの絵も入れておいた。うさぎとリスを描いてしまうと、ねこを描かないわけにも行かないので、森の中に棲んでいるかわからないけどねこも2匹描いておいた。全編に くすんだ中間色ばかりを用いたことも相俟って、完成資料はどこからどう見ても「おとぎ世界の紙芝居」にしか見えない。しかし これは新入社員研修の為の資料なので、やはり22歳や26歳の多感な者たちには こういう色合いの方が良いのです、情操的にも、などと説明すると、上司は快く受け入れてくれた。

それにしても、図表作成って苦手。テキストボックスに書くのも苦手。縦横無尽に伸び縮みしたり枠の外へはみ出していく文字列。ねじれた末に、とめどなく回転し続ける矢印。20年前の会社員は、定規とカッターと糊と蛍光ペンを駆使して、自力でスライド資料を作っていただろうか。機械の機能の進化に合わせてスキルや物理面で対応していく労力と、手作業で切り貼りすることの労力は、大局的に考えると まったく同じことのような気がする。へんな色の資料をテンポラリフォルダにとりあえず格納して帰宅。関係ないけど、部長はこのテンポラリフォルダのことを「コンテンポラリーフォルダ」という。わたしも「テンポラリ」を初めて見たときはふつうにコンテンポラリー、と読んでいたので、まったく人のことは言えないけれど、しかし部長が臆面もなく「コンテンポラリー」と発音すると、反射的に脳裏に前衛的な舞踊の映像が浮かぶので、毎回 おもしろすぎて困る。全裸の舞踏者たちが、部署の各資料を中央に据えて円陣を描き、漂うように踊るイメージが反射的に。そして バカ、コンテンポラリーじゃねえよ、と、毎回思う。


お互いに21時に会社を出たので、最寄り駅でWRと待ち合わせ。夕食に行く。WRが到着して暇を潰しているあいだに、発売されたばかりのともだちのCDを購入。でも当分は、これは聴かない。わたしはファンではないと思う。鞄の奥にそれを仕舞って、大学生で一杯の駅前通りをふらふらと歩く。今日は珍しく、朝もWRと一緒に家を出て 途中まで同じ電車に乗って行ったし、帰りも待ち合わせして一緒に帰る。新型インフルエンザが流行りなので、集団登下校をしている。というのは今思いついたてきとうな嘘だけど、これだけのことで、生活への連帯感が妙に深まっていく気がした。

木の絵、といえば、何年か前、新宿のとあるクリニックで木の絵を描かされた思い出がある。この話は 日記に書くにはあまりにもヤバく、あまりにもおもしろすぎるので、今此処に記述することは不可能だけれど、PPT資料で偶然できた木の絵は、そういえばこのときに描いた木の絵とまったく同じ、木の絵だった。木の絵なんて、ふつう この世にひとつしかない。毎日忙しいけど、忙しければ忙しいほど、現在と同時に むかしの記憶が並存するし、競りあがってくる。ひさしぶりに、WRよりも後に眠った。