死が転がっている

午後2時。昼休み前後のざわざわした雰囲気も収まり、仕事に集中し始める頃。わたしが居る部署と、同じ階に入っている子会社の事務所を分断する渡り廊下の真ん中にある エコステーション的な場所に、要らない雑誌やCDを捨てに行ったところ、エメラルドグリーンのつなぎを着た女性が、うつ伏せになって倒れていた。

倒れていた、というか、まるで物のように動かないから、放置されている、という印象の方がより近い。わたしがそれを見つけた瞬間、廊下の向かい側から歩いてきた子会社の方の男性社員も同じようにそれを見つけて、慌てて中に居る女性社員に救急車を呼ぶようお願いしていた。段々にひとが集まってくる。同じ清掃会社の エメラルドグリーンのつなぎを着た男性が、倒れているひとの手首を持って「脈はあるけど、呼吸がない」という。意識は完全にない。2分だろうか3分だろうか?とにかく驚くべき早さで到着した救急隊のひとたちは、倒れているひとに少し触れるか触れないかしただけで、ああ、これは脳梗塞でしょうね、ちょっと難しいでしょうね、と わたしたちに説明して、その後で、よく知っている担架とは少し形状が違う、乗せるひとを縦にして運ぶ新型の担架にそのひとを乗せて、エレベーターで降りて行ってしまった。エメラルドグリーンの相棒が 救急車に付き添って乗っていったようだった。毎日同じビルで働いていて、顔は見知っているし 挨拶もするけど、清掃会社から派遣されてくる彼らの名前は誰も知らない。年齢も知らない。社内の誰かがこんな風に倒れて救急車がきたら きっと大騒ぎとなるに違いないけど、違う会社のひとなので、救急車に乗っていった後のことは誰も知らない。

資源ゴミ回収のまさに途中でこの事件が起きたために、彼らの仕事道具である巨大なゴミ運搬用のワゴンや、燃えないゴミ・空き缶・ペットボトルと、種類別に幾つもある巨大なゴミ袋が、部署のエレベーターホールに放置されたままになっていた。ああ、ゴミ回収も中断してしまったのだ、これは一体誰が片付けるのだろう、と思っていると、それから2時間ほど経った夕方には、エメラルドグリーンのつなぎを着ているけれども いつもとは違う二人組が、それらのワゴンを使って作業の続きを行なっていた。エレベーターホールに放置された、中途半端にゴミが積まれたままのワゴンが、ひとりの人間が死んだこと、死んで作業から離脱したことの象徴のような気がしていたのだけど、その為の作業の滞留はわずか2時間ほどだった。スーパーマリオのキャラクターのクリボーが、ひとついなくなっても次々に新しくなって出てくるのと似ている。人身事故の後 電車が復旧して あっという間に日常に立ち返る風景にも似ている。それから、ビルの中で働くひとたちの中で、恐らく最も苛酷な労働環境にあると思われるひとが、いちばん最初に倒れ去った、という事実が、戦争の世界に近いとも思えた。最も弱いひとから死んでいく、という。映画や本の中の死よりももっと、失くなったことさえ無かったことになるスピードが早い。これは死の光景ではなく、「離脱する」ということの一部始終だと感じた。

縦にして転がしていくタイプの担架は、まるで棺のように見える。従来の両端を2名で持って水平に運搬する担架ならば、無条件に、痛がったり苦しがったりしている最中の人間が運ばれていると思えるのだけど、縦にして運ばれる人間は、見慣れないからか、あるいはスーツケースを持ち運ぶ様子に似ているせいか、死体を運搬しているように見える。

何事もなかったかのように、夜まで仕事をして帰宅。会社にいる間は まったく気にはならなかったのに、帰宅の途中、エメラルドグリーンのあのひとは死んでしまったのだろうか、エメラルドグリーンのあの制服は救命病棟で脱がされたのだろうか、あのひとの今日の勤務シフトは「早退」と処理されるのだろうか、付き添って行ったエメラルドグリーンのひとはエメラルドグリーンの服のまま電車で会社に戻ってくるのだろうか、と きれぎれに考えているうちに、得体の知れない悪い気分になってきたので、夕食を作ろうとスーパーの生鮮食品売場までは行ったのだけど、どうしても食べ物を買う気が起きなくて、そのまま家に帰って眠ってしまった。夕食も食べず、夢も見ないでよく眠った。深夜にWRが帰宅して、帰ってきた姿のまま眠りこけているわたしを見て「ゆきんこ タイツ履いたまま 寝てる」と独り言を言う。その時、部屋の灯りもテレビもつけっ放しで、顔も洗わないまま服も着替えないまま わたしは眠っていたのに なぜタイツの着脱についてだけが異様にフィーチャーされているのだろうか、と頭に疑問が浮かんだけど言わなかった。