憎悪 隔たれる

そういえば、昨日は村上春樹の新刊を購入したのだった。もう此処何ヶ月かの間は、まだ読んでいない本が手許に山と積まれたままなので、今 わたしが村上春樹だけを特別扱いしてひとまず先にこれを読むという理由は少しもないので、暫く時期を置いて 古本屋にずらりと出揃う頃に購入したって一向に構わなかったのだけど、なんていうか、日本語で物語を書く 同時代の作家の本を、発売と同時に読む贅沢を体験してみよう、という、完全に儀式的であり、また商業主義に毒された理由から、発売直後のこのタイミングで買うことにした。

わたしだって、今みたいにバカ高いシャンプーやトリートメントなんか使わなくても、洗って梳かすだけで髪が絹みたいにさらさらだった15歳や16歳のとき、ありきたり過ぎて恥ずかしくもないけど、村上春樹の小説の熱心な読者だった。それとは別に 作文少女であったわたしは、多分将来は小説家になるんだろうと漠然と思っていて、しかし わたしが読んでいた新潮文庫のカバーの裏にある日本の作家の経歴は 大多数が東京帝国大学卒業だとか中退だとか、そういうふうに書いてあったので、ああ なんだか作家になることも案外とても厄介なのだろうか、と早速面倒くさくなりかけたとのだけど、そこで首尾よく 東京帝国大学の次に多く登場するのが早稲田大学であることを思い出して、ああ そうだ、こっちにかんたんなやつがある、村上春樹のところにもそう書いてあるし、寧ろ今のひとはこっちの方が多いくらいだし、何も微分積分を駆使して東京帝国大学に行く必要は全然ないじゃない、東京で暮らすのも作家になるのも、こっちで行けば随分かんたんそうだわ、わたしはもうこっちでいいや、と、そうすることにすっかり心を決めてしまった。そして結局 その時に決めた、いちばんかんたんでいちばん考えなしの考えを、常に現在進行形で大志にボンヤリと抱きながら、わたしは大人になってしまっているのだった。

村上春樹は、大学生になった途端 真っ先に嫌いな作家になったけど、でも好きとか嫌いとか文学的とかそうでないとかに関係なく、色々なことを放棄して 色々なことをかんたんに回避して生きてきてしまった自分について、このひとの名前を見かけるたびに、苦々しさを突きつけられる。それに、学生時代のともだちで本を読むひとたちと話していると、この作家のことを「大好き」と云うひとと「大きらい」というひと、真っ二つに分かれる傾向がある。

10人のひとに万遍なく好かれるものより、10人中8人が拒否しても残りの2人に熱烈に好かれるものがいい、とかいう言い回しがよく使われるけど、村上春樹の場合、10人中6人に熱烈に好かれて、残りの4人に嫌われるけど、その4人にすらも、ブツクサと云わせながらも手に取らせてしまうところが凄いと云えば凄い。

という訳で、この一つ前に新刊だった小説を読んだとき以来 数年ぶりに読んでいる村上春樹は、村上春樹を読むときにかならず憶える、村上春樹を読むとき特有の苛立ちや胸のむかつきをやっぱり律儀過ぎるぐらい律儀な形でわたしに思い出させてくれる。

わたしはもう大人なので、「やれやれ」とか「僕」とか「セックス」とかに関して言いたいのではない。未だ読書の途上だけれど、前作とも前々作ともほとんど変わらない種類の反発や、否定したい気持ちや、粗探したくなる欲求に襲われる。だけれど、村上春樹の小説は、いつもとても読みやすい。それは、彼の言葉が(言い回しの癖のようなものは、時代を感じさせるものの)古びないで2009年5月31日現在の現実に即しているからだろうし、彼の小説を読む大半の大人が、読書体験として彼の作品を通過してきているからでもあるのだろう。ひとつの時代の象徴になりうるほどに 第一線で書き続けるということは、書き手と読み手が補い合える関係を構築できるということで、今時「小説」のような媒体でそのような稀有な関係が成立すること自体が、モンスターだ。

夕食を終えたあとは なんだか体調がすぐれなかった。駆け込みの5月病なのだろうか?だとしたら明日にはすっかり治る。

1Q84 BOOK 2

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1Q84 BOOK 1

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