T氏との夜

6/13 18:30 駅前でT氏と待ち合わせ。土曜日だけど、朝から一日中しごとの勉強会に出ていたWRは、1時間遅れで合流する予定。T氏は、1ヶ月程前に、ふとしたきっかけで知り合った、わたしたちの親と同世代の著名な音楽プロデューサーの方。わたしとWRは、何故か 一目で彼に好かれ、「月に一度は飲みましょう」とお誘いをいただけるようになった。『こころ』の、先生とわたし、をそっくり入れ替えたような出会いだと思う。わたしたちは、彼に好かれる理由を、何ひとつ持ってはいないから。お互いの職業すらも、連絡先を交換するまでまったくわからないで会話をしていた。なので、蓋を空けてみれば遠からずのつながりがあったとしても、この妙な出会いに、それらのことはまったく関与していない。わたしたちは、ただ 好かれている。

WRが来るまで、入り組んだ路地の中の古民家を改造した和食呑み屋のオープンスペースでエビスビールを一杯飲んで、それから本屋で立ち読みしながらWRが到着するのを待って、30年も40年も前からありそうな、古いイタリアンレストランに連れていってもらった。ここでは赤ワインを飲む。T氏は、次々と居場所を変えるのが好きなようで、イタリアンの食事を終えると、次は屋上がモンゴルのパオのようになっている、オーガニック・バーへ行き、そこでわたしとWRはジントニックを飲んだ。さいごに、もう一軒移動して、今度は石造りで洞窟のようになっている、外人の多いカフェバーへ。わたしとWRは、祖母の家の床下で漬けられていたのに違いない、濃くて甘ったるい梅紫蘇サワーを ストローで飲んだ。紙芝居をめくるみたいに小気味良く、1時間刻みに夜が更ける。

T氏には やはり、とても不思議が多い。WRの持っている「ロック名盤400選」でかんたんに名前を見つけることができた けれども、その時代の話を語るわけでも全然ない。やはり、先生とわたし、の逆なのだ。先生がわたしたちで、わたしがT氏で、だけど「成功し、多くのものを手にしている」のは言うまでもなく T氏のほうだ。

T氏とわたしたちの関係が、今後どうなるのかは全然わからないけれど。わたしたちは、ふたりでいても随分と孤独で、どんな若者たちより何も持たないように見えるために、T氏はわたしたちのことが気になるのかもしれない。世代の離れたもの同士の交流によくあるように、尊敬と可愛がりのような構図も全然ない。

さいごのカフェバーを出る際、レジの脇にライブイベントのフライヤーや劇団のチラシが何十種類も置いてあるスペースに、カゴに入った色とりどりの缶バッジが置かれていて、T氏は「おみやげだって、ハイ、これ」とひとつかみ掴んで、7個か8個もわたしたちの手に握らせた。それを貰ってバッグにしまったのはわたしだったけど、後からWRが見たらカゴのところに「1個300円」の札が貼ってあったらしい。一部始終を目撃していたレジ係の店員も、笑顔で送り出してくれたので、常連客であるT氏には多分窃盗罪は適用されないのであろう。そもそもT氏は缶バッジのようなものに まさか価格というものが存在するなんて、夢にも考えたことはないのであろう。

その缶バッジが、わたしたちのミュージシャンSK氏デザインの絵柄だった為、WRは「T氏が 何かのオマケのようにむんずと掴んで僕らに振舞ったコレが、SK氏作の缶バッジ(売品)とは…。宇宙の真理を象徴している」と かなりの衝撃を受けていた。わたしも衝撃を受けた。ノーミュージック ノーライフ、ラブ&ピースの権化のようなSK氏に対する、音楽資本主義の怪物・T氏。でもT氏だって、たいへんに愉快で良いひとだ。


T氏は明日からしばらくパリに行く、お土産買ってくるからまた会おう!と言い残して、夜の町をさっさと反対方向に歩いて行ってしまった。パリのお土産なんて、お金持ちの伯父さんがいる 9歳のこどもになった気分だ。T氏は 9歳の双子のこどものような顔をしたわたしとWRに、チョコレート・ボンボンや、凱旋門のプラモデルや、エッフェル塔のペンダントを 買ってきてくれるのだろうか?