何でもないせかいの約束

やはり2度目の梅雨は 無かった。水曜は空に雲が残る晴天。ギターのフレットのようにしか見えないJRの線路、その向こうを走る新幹線、ビルとビルの狭間を走るモノレール、その上にそびえたつ高層マンションとオフィスビルの いちばん奥に、今日は きらきらと銀色に光る、入道雲が見える。こどもっぽい舞台装置の背景だ。わたしの夏風邪は もう薬も飲んでいないしすっかり治癒して過去のことになっているのに、今日になってから急に「ねぇ、風邪ひいたんでしょう、声が 全然ちがう」と、何人ものひとから声をかけられた。あんなに咳き込んで鼻をグズグズしていた昨日までは、わたしの夏風邪に関して、誰ひとりとしてノーコメントだったのに。それとも、夏風邪が治って、声変わりでもしてしまったのだろうか。まさかね。人から向けられる関心など、まるでアテにならないことを証明している。

仕事のあとは、SMさんと一緒に帰宅。近所のカフェバーで、ビールを1杯だけ飲んで帰る。この店の前に入ろうとしたカフェバーで、Sというバンドのギタリストに会い、このお店ではTHE PRIVATESのヴォーカリストが、アコギ1本でプライベートライブを行なっていた。THE PRIVATESの名前はモチロン知ってるけど、音を聴いたことは一度も無かった。わたしとSMさんは ライブ客ではないのでテラス席に通されたけれど、チケットを持ったひと以外は入ることができない店内と テラス席に仕切りはないので、実質的には ビール代を払っただけで中のお客さんたちと同じようにライブを楽しむことができてしまった。THE PRIVATESのヴォーカリストは、とても 良い歌手のように見えた。彼らの曲をわたしは1曲も知らないから、良い歌なのかどうかはよくわからなかったけれど、ギターが身体とひとつになっている佇まいには、どれだけリラックスしていようとも物静かで瑞々しい気迫のようなものがあり、彼がとても良い歌手だろうということは、誰が見てもすぐにわかる。過去も現在も未来にも、若いロックバンドというのは いつの時代にもかならず存在するけれど、例えば今20代前半のロックミュージシャンが 40歳になったとき、ギターと歌だけで いったいどれだけの歌を歌うことができるだろう?と考えるとき、このひとの歌なら聴いてみたい、と思えるひとが ひとりもいない。ミュージシャンって ほんとうに奇妙な仕事。それから、此処のカフェバーのメニューには ヒューガルデンが ちゃんとあって、夏の夕方のテラス席でこれをグイっと呑むのは やはり至福の時なのだった。

SMさんもわたしも 夕食は夫と共にとるため、20時半にお別れする。SMさんと別れてそのまま、仕事から戻ったばかりのWRに駅前で会い、今度は夕食と読書の為に、別のカフェバーに 向かう。WRはクリスタ ヴォルフ「カッサンドラ」の続きを読む。わたしは 何度も繰り返して読む、気に入りの本をもう一度読む。カフェの窓から、夏期講習の授業がちょうど21時にハネたのだろう、日能研のこどもたちのNバッグが オフィスビルの出入り口に無数にひしめき合っている。WRの勤務先でもわたしの会社の同僚も、東京出身の子は、おおかた日能研の出身者だ。わたしとWRは あの青々としたNバッグを憧憬している。

WRは 本を読みながらカフェで「本を大切にするあまり本の背中を割りたくないために 3cm分の隙間しか頁を開けず 必死で読もうとしているのだけど、結局どんなに覗き込んでも頁の端の行しか判読できないため、頁の真ん中の読めない箇所は すべて想像で補って読書するひと」の物真似などをしていて、その出来映えがあまりにも素晴らしすぎて、カフェのソファで声を殺して笑い転げた。WRは ニートの振りとか、魔太郎風のしぐさとか、シュンとしたひと、落ち窪んだひとなど、後ろ向きな行動様式の素振りをするのが、天才的に上手い。わたしは夕食に サンドイッチ 食べた。軽くトーストしたパンでつくったふつうのサンドイッチが好きだったことを、ここのサンドイッチを食べて、9年振りくらいに思い出した。



3年とか4年前とかのわたしが「未来の雪んこは何してるかな」とか 思って、好奇心に駆られて、此処の日記帳にアクセスしてみたら「え、まいにちこんなんで生きてるの…人と会ったりできるの…許されると思ってるの…」って、思うんだろうな、と思った。異常な世界から覗いた平穏無事な日々の様相はそれだけで死に匹敵するほどなまぬるく、眠りの行為と同等に、自分を放し飼いにしている気がする わたしのビー玉の目にそんな風に映る気がする。ひとは言葉を 美しいとか汚らしいとか 詩的だとか知的だとかそうでないかとか、言葉によって判別しがちだけれども、言葉にだって、

色と線で構成された無音の世界とか、音しか響かない暗闇の世界とか、お人形とねこの世界では それがまかり通っているみたいに、言葉以外の言葉でしか表現しえない領域があるって 信じるも信じないもそれは自分の勝手だよね、だるくても前髪の隙間の黒い目を見開け。