ねこは ただ可愛いためだけに造られたもの

雨で曇りで晴れ。夏休みまえの駆け込みしごとが少し。少し忙しい。今日は珍しく夏らしくなく暑くない。暑くない夏は変な日。わたしがこどもだった頃はまだ、冬は大雪が積もって寒くて、夏は1秒の隙間もなく蝉の声が鳴り響いていた。会社のフロアは、抗菌化されてモーター音ができる限り小さく設計された、白くて清潔な冷蔵庫のよう。ふわふわの産毛の桃や甘夏や無花果や梨が、静物画よりも脈絡を失い、霧の向こうに整然と整列する。

夕食は、新宿で友紀ちゃんと。歩いていて見つけた 野菜レストランに入ってみる。2階席に案内されたけど、階段の踊り場に「虫さんたちがいただいた、残りを、感謝していただきます」という みつを風の筆文字が入った 虫食いキャベツの絵が額縁に入って飾られていて、それはちょっと、ちょっとというか、全面的に、はげしい抵抗を感じた。野菜は特段にみずみずいこともなく、ふつう。店が空いている所がよい。

食事をしながら、何処にも行かない夏休みの話や、女と仕事、女の人生について、語らう。教育と勤労と納税の義務。これらの三大義務の大前提として、社会なり国家なり世界・・この世界が持続していくために 新しい人間が産まれることの必要があり、地球規模で見れば人が産まれすぎるのも良くないことかもしれないけど、しかし、人間を教育して勤労させて納税させる社会の前には、少なくとも人が産まれる必要があり、(家事労働も含めて)勤労したり、納税したりしながら その見えない義務を負っているのが、女のひとであるということ。こどもを持たない選択も 誰もが平等に許されているけど、男女で考える「こどもを持たない」と 女が考える「こどもを産まない」は、別物と思える。何を選択するにせよ、選ぶ痛みも捨てる痛みも同じようにある。水中で、地上と同じように振舞おうとすることが不自然なように、こどもを産まないことは不自然なことだという気がするし、自然界にあるものは、どれもみなそうあるために 完璧に精緻に造られているから美しい。ならばやはり人間も、女も、無意識でも何でもそうありたいと思うことが当然だし、作為的にそうでなくすることに対しては、迷いや葛藤が生じてしまうものなのだろう。女は大変だけど男だって大変だ、という。けれど 女は女が生きることの大変さしか語れないし、男だってそれは同じこと。けれど、男が男の辛さを語るようなことは、女よりもずっと社会的に難しいのかもしれないけれども。わたしは幸せに生きていきたいと思っているけど、幸福とか不幸とかいう曖昧模糊とした尺度なんか、人生にとっては ほんとうはまったく不似合いなものであるかもしれないよ、それぞれのひとに 幸福とか不幸とかに規定されない、凄みのようなものはある。店じまい間際のカフェで珈琲を飲んで家にかえる。夏休みまで あと4日。