錯綜する錯誤、ジャパニーズガール

朝いちばんの上映の早稲田松竹へ赴く。勿論WRと一緒。一年振りの溝口健二特集。「浪華悲歌」と「西鶴一代女」の二本立て。

小説でも映画でも、古典のすべてに言えることだけど、むかしのお話は それが悲劇であれ喜劇であれ、物語の骨格が非常にシンプルで力強いので、物語がどう展開するかは伏線の時点から殆ど全部見通せてしまえるけれど、そんなことは「それがどうした」とあっさり一蹴してしまえるし、そのことが寧ろ、物語に更なる神々しさを付加している。

むかしのお話の中のむかしの人たちは みな思考が単純だ。人間らしさの象徴となる、複雑な感情や生じる矛盾、自己撞着の現れ方さえ、ひどく簡潔明瞭。それを客席から鑑賞しながら、笑いのシーンでは アハハハ、と笑い声をあげ、別れのシーンではそっと涙を滲ませる現代人のわたしたちが、溝口映画の中のひとよりも高度で複雑な感情を有しているとはとても考えられないのだけど、現代人の内面は、複雑で難解で精神病的である、と半ば当然のように規定されて世の中の事が進んでゆくことが、おかしい。

映画の最中、客席後部から、お婆ちゃん同士の大声の会話が聞こえてきて、なかなか話し声がやまないので、ついに「静かにしてもらえませんか!」「・・・静かにしろっつってんだよ!!!」と、声を荒げた男性がいた。あのお婆さんたちの騒音については、おそらく満場一致で「うるさいナー」と感じていたから、そうやって注意してくれた男性に対して「でかした」というムードが漂っていたけど、そういえば 今年のお正月に小津安二郎を観に来たときも、おせんべいをバリボリ食べながら、場違いなシーンで大笑いをするお婆ちゃんがいて、そのときもわたしは「ああ、老人はこれだからマナーが悪いよ」って内心イライラしていたことを思い出した。

けれど、ちょっと考えてみると、小津の時のおせんべいボリバリも、この日のお婆ちゃんのお喋りも、やっている方は悪気など まるであるはずもなく、単に昔の、彼女たちが娘さんだった時代の流儀のまま、小津だろうが溝口だろうが、映画なんてせんぶ娯楽で大衆活劇、という認識なだけ。

翻って、スーパーマンとかルーキーズとかは観に行かない癖に、殆ど半世紀も前の、こんな薄暗い「名作」を鑑賞しに来る若者は、美大生とか早稲田の二文の生徒とか、押並べてそういう世界観の住人であり、こういう映画を観る行為は、娯楽だけれど娯楽を越えた、芸術とか教養とかそういう意味合いをも含んだ高尚な遊戯と見做しているのであって、同じ映画を観に来た客なのに、両者の間に横たわる溝は、地の果てまでも 深い。

現代人の複雑さや繊細さなんて、この程度のものかもしれない、と自戒を含めて思ってしまった。映画館という公共の場で、家の居間のように振舞うお婆ちゃんはいただけないけど、それは まさしく上映中の映画の中で展開している、天真爛漫で単純な人間たちの喜怒哀楽を体現している。

夜は サークル時代の先輩たちと小規模な飲み。歌舞伎町。先輩の会社の同僚だという酔っ払った黒人に、羽交い絞めにされてキスを浴びせられ、こねこのように 震え上がる。石井さんが「シー イズ ジャパニーズガール!ノー!ファック!」と代わりに怒ってくれたので、ちょっと笑った。石井さんだって 同じジャパニーズガールじゃん。しかし、日本人だろうがアメリカ人だろうがユダヤ人だろうが、酔っ払った挙句の愚行であることに変わりはないのに、こういうボディタッチに対して、相手側の文化を否定すること無しに、毅然とした怒りを表明することはとても難しい。それとも ジャパニーズガールはこれを難しいと思って考え込むから、見事にその隙を狙われるのだろうか。

今夜は 皆それぞれの理由で疲れていたので、3時間ほど飲んで速やかに解散。夜の新宿はネオンギラギラで賑やかだけど、一頃のようなバブリーな弾け方をしているひとは少ないように見えた。ホストも暇そうに突っ立っているし、観光ツアーのようなアジア人の家族連れが あちこちに散見される夜。

今は、もうすぐ終わる夏休みについてばかり考えている。夏休みには、かならずさいごの日があるから。学校も会社もきらい。ずっとおうちの子でいたいよ。