お泊り会 離散

会社にて。40歳のUB(うるさいババア)が 難しくて面倒な作業はぜんぶわたしに押し付けておいて、いちばん達成感のあるさいごの仕上げのところで唐突にそのしごとを奪い、まるで自分ひとりですべてをやり遂げたかのように ドヤ顔をぴかぴかと輝かせているので、瞬発的に仄暗い殺意が芽生えた。

面倒事はぜんぶ部下に押し付けていいとこ取りをする上司は どんな職場でも嫌われると聞く。しかし彼らは 面倒事という面倒事をぜんぶ部下に押し付ける代わりに 部下の能力を「評価」というかたちで還元する権利を持つので、その権利が正しく施行される限りにおいて、上司と部下の関係性はイーブンとなる。しかしUBは 会社滞在年数という意味でははるかにわたしの先輩だけど、現在も未来も わたしを評価する立場にはならないことが決まっているので、UBに押し付けられる面倒事と、UBにみすみす手柄を手渡すことは、何の意味もない ただのボランティアに過ぎないことになる。UBがいいとこ取りをしようと近づいてくる気配を知覚したとき すぐさま、「これはわたしのしごとですから、わたしがさいごまで仕上げます」と 毅然として言い放つことだって できる。けれど、こんなUBと張り合い、しごとを奪い合う自分の姿など 想像するだけでも嫌気がさすし、UBの性格上 こちらがそんなことを宣言すれば、阿鼻叫喚の狂気の大騒動に発展することは どんなバカにも自明の事実。たったひとりでも卑怯な手を使おうとする人物が存在すると、知性によって構築される性善説の調和、というべきものに 濁りが生じる。ストレスフル!ストレスフル!

帰宅して夕食をつくる。焼き魚と野菜炒め。質素がよい。ひさしぶりに会社から直帰して夕食作りをしていると、この程度のかんたんなものでも、非常に鬱屈とした気分になる。退社時刻が訪れ、UBの悪意から漸く逃れた次の瞬間には、もうスーパーに立ち寄って、モヤシの棚の前などに呆然と立ち、たった1秒の出来事だとしても「やっぱり48円の安いほうを買うべきかしら?でも“根切り”してあるからここは多少高くても やっぱり78円の雪国モヤシにすべきかしら?」などと逡巡することは、わたしの自己形成に 深刻な影響を及ぼす。この30円の違いは、今迄の自分の人生にまったく関与しなかったし、今だって経済的にはまったく関与しないことだけれども、心情的に便宜的に30円の差異について考えなくてはいけないような気がすることが、今のわたしに、恐ろしく切実に関与している。

30円安かろうが高かろうが、どうせモヤシなんてほとんど使い切れなくて 冷蔵庫の中でドロドロに溶けて、早晩 燃やせるゴミで燃やされるという運命を辿るだけなのだけど。香港や台湾みたいに、朝昼夜の食事はすべて外食することが常識であったらいいのに。あるいは、昔の日本みたいにレストランもコンビニも存在しなくて、食事はぜんぶ家でつくるものと予め決まっていればいいのに。選択肢があるから、選択肢の中でより良い(ものと社会的に規定されている)選択をしなければ、と余計な思考を働かせてしまう。わたしがこうしているのだから 相手にもこうしてほしい、と要求してしまう。自由な選択があること自体が、自分をどんどん自由でなくしている。片時も休まず、自由が自由を奪いつづける。

夕食後 WRは勉強。わたしは長風呂。湯気を立ち上らせながら長風呂から帰還すると、WRが来週末、勤務先の同期と1泊2日のお泊り会に行くと言い出したから驚いてしまった。お泊り旅行って、いったいぜんたい何処に行くの?と尋ねると「まだわからない」などと寝言のような戯言を云う。そういえば、去年も同期と行き先はバスが着くまでわからないとかいう1泊旅行に WRは出掛けて行ってた。ミステリーツアーを気取っているの?そんな 毎年欠かさず開催するほど、その企画って面白いものだろうか。謎!謎!!謎!!!いつもは「飲み会なんかより 家にいるほうが断然たのしい」って云ってる癖に。まるみちゃんやねこたちも総動員して「WRだけお泊り会なんてズルい」「みんなを置いて行くなんて」「これはもう 家族離散だ」と泣いて騒いだら、「1泊で帰ってくるのに 大袈裟だねえ」だって。

そう大して悪くもない日なのに、今日みたいな日って なんだか とってもつまらない。わたしも 誰か好きなひと誘って旅行に行くつもり。わたしが誘いたいひとならば、きっと わたしが誘いさえすれば、きっと 一緒に来てくれるはず。フン フン フン・・・