脊髄液がゆれる

早朝、WRは勤務先同期たちとの旅行に旅立ってしまった。10日程前、WRが突如「同僚たちと1泊2日の旅行に行く」と宣言したとき、家族離散だ何だと大騒動に発展したけど、その直後 予期せずまるみちゃんが病気になり、とちぎ県へ旅立つことになってしまった。わたしたちの業を、まるみちゃんは一気に引き受けているのだろうか。まるみちゃんの病気で、一時的とはいえ家族はとうに離散してしまったので、WRの旅行だって、もう何処にでも行って頂戴、という気分。まるみちゃんの病気がなければ、金曜の夜にはWRのお別れパーティーをする予定になっていたけど、それだって中止。早朝、眠くてムニャムニャしているわたしに「行ってくるね、メールするね」と言い残してWRは出掛けて行ってしまった。わたしは9時頃に起床。午後の友紀ちゃんとの約束の時間まで、家の中の用事をするつもり。

ゆっくり朝風呂に入り、クリーニングをピックアップし、オニギリ2つの昼食をとり、14時半待ち合わせの銀座へ向かう。今日は友紀ちゃんと美顔エステ。待ち合わせまで少し間があったので、ソニービルの前の喫煙所でタバコを吸ってたら、制服を着た中学生の女の子が「天上書」と書いた白い紙を掲げながら、大声でお経を唱えている。次に、待ち合わせをしたビルの前に行ったら、そこでは小学4年生か5年生の、いかにもサッカーが好きそうな男の子、教室の中ではきっとモテそうなタイプの男の子が、同じく「天上書」を持って、大声でお経を唱えていた。赤い羽根募金や難民支援の募金箱を持って駅前に並んでいるこどもたちとまったく同じ声の張りかたで。誰しもが驚いた顔で振り返るけど、見てはいけないものを見たような、決まり悪い感じでそっと目を逸らして通り過ぎて行く。

わたしは友紀ちゃんが現れるまで、5分くらいそこで見てたけど、男の子に話しかけたのは一人の中年女性だけだった。大方「アラ、ボク、それは何をしてるの?」とそんなふうに声を掛けたのだろう、それでも話しかけられた男の子は、居場所を得たようにキラキラと顔を輝かせる。しかし、中年女性はそれが宗教とすぐに気づくと「アラ、そうだったのね、がんばってね」とそそくさとその場を離れようとする。男の子は、せめてパンフレットだけでも、と鞄から何かを出そうとしながら、待って!ねぇ待って!これだけでも持ってかえって!と必死の笑顔で追いすがる。わたしも何か話しかけてみようかな、と思ったのだけど、男の子がずっと賞状みたいに頭の前に掲げている「天上書」に、まさしく小学4、5年生のこどもの字で「**に出会ってから、ぼくは人から喜ばれるひとになれました!毎日感謝しています!」と書いてあるのを見て、さすがに居た堪れない気持ちになってその場を去った。

宗教に限らず、何かを信仰したい、信じる何かが欲しいという気持ちは、本来は誰もが持っているごく自然の欲求だ、とわたしは思い、こどもであれおとなであれ、本人が何か信じるものを得て幸せだと感じているなら、それはそれでいいではないか、とも思うのだけど、やはりこういうものは見ていて気持ちの良いものではない。1Q84の世界。ハルキムラカミの予知夢の光景。だけど「まだこどもなのに、こんな夏休みなんて可哀相」みたいな思いは、不思議とちっとも湧いてこない。小学4年生のときも中学生のときも、わたしの夏休みは大人のしごと顔負けに名門でスパルタの吹奏楽部の練習に没頭していて、そのときの一心不乱ぶりといったら、まさに宗教的だったし、そのエネルギーは、多分 このお経を読むこどもたちとまったく同じものだったので。このこどもたちは、きっと醒めた大人になる。

エステは気持ちよくて面白かった。隠れ家的高級サロンのはずが、なぜか二人の中年女性に出迎えられ、ひとりは女優の八千草薫を若くした風の上品なおばさまで、もうひとりは痩せぎすで目が離れ気味のおばさまで、内心(こっちの八千草薫風が良いな・・・)と思っていたら、まんまと痩せぎすの方が「こちら雪さんでございますね」とわたしの方にやって来たので、あっちが良かった・・、と、おおいに落胆してしまった。こちらが女であちらがおばさんでも、どうせ身体に触られるならきれいなおばさんのほうが良いと思ってしまうということは、美人好きの世の男たちのこともこれからは到底責められない。

エステとはいえ、ふつうのエステとは毛色が違う「23個の骨で構成されている頭蓋骨の縫合の僅かなズレを矯正し、顔面筋のリンパ液や脳脊髄液の排液を行い、顔・内臓・皮膚・骨格全体を整える」とか云うお医者の友人に聞かせたら激怒しそうな内容なのだけど、最初に聞いた「脊髄液」という言葉が、ゆるゆると身体のなかを流れていく小川のようなイメージとなって、気持ち良くてうとうとしているうちに、エステ終了。隣の部屋で施術してもらった友紀ちゃんも、つるつるピカピカと していた。

エステ後は、六本木に移動。そこから麻布までお喋りしながらテクテクと散歩。今日は美肌祭りということで、麻布十番の参鶏湯の名店「グレイス」へ赴く。レバ刺し、チャンジャ、チヂミを飲みながら食べて、さいごに参鶏湯。透き通った味で、胃に優しく、身体が温まって美味しい。友紀ちゃんとは 相変わらず恋愛や結婚や生活のリアルな話で花盛り。わたしはもう、自分が既婚者であり 生活にサプライズがやってくるとは思えないので、友紀ちゃんがいつか結婚するときが目下の楽しみだ。

麻布には 異様に足が細長い犬や、馬並みの犬、球状の犬など、異色の犬を引き連れた人々が散見された。すもうとりがいた。放火未遂をしている気の狂った女ホームレスがいた。友紀ちゃんは恋人の家に行くために南北線に乗り、わたしは大江戸線で まるみちゃんもWRもいないおうちに帰る。自由な夜 帰ったらのんびりお風呂に入って好きなことをしよう!と思っていたのに、マッサージの好転反応だろうか?すぐに眠くなってしまった。