骨格と肉

水曜日から金曜日の夜まで、WRがいない。勤務先の昇進者研修とかいうやつで、泊り掛けで千葉県に旅立ってしまった。また家族離散の数日だけど、今はまるみちゃんが帰って来たから、前のときほど寂しくはない。


この頃 帰りが遅くて、家にいられる時間が殆どない。WRがいない2日間も、友達と出掛けたりもしないで平凡に過ごしている。昨日も今日も、帰宅した23時にお風呂に入ろうと思って お湯を貯めたら熱すぎたので、少し冷ますつもりでベッドに横になっている間に眠り込んでしまう、という失態をした。昨日も今日も、服を着たまま、化粧もコンタクトレンズも 部屋の明かりもつけっ放しでぐっすり眠って、早朝4時半に目が覚ますと、お湯はすっかり冷め切っていて、お風呂を諦めてタバコを吸いに外に出ると、折り紙の金色の半月が、空の高いところでギラギラしていた。誰もいない早朝の月。世界で他に今この月を眺めているひとがいるとはぜったいに思えない。わたししか見る者がいない、叫びたくなるほど孤独な月だ。灰色のパーカーを着込んでいても、空気が果物ナイフで切り傷をつけてくるみたいに、冷たい。


あたらしい本を読もうと思うのだけど、やっぱりわたしはこどもの時からそうだったみたいに、好きな本を 繰り返し繰り返し読み返し続けることが 好きで、結局 漱石の「行人」を読んでいる。漱石は、わたしたちが普段意図的であれ無意識的であれ、正しく見過ごしながら生活している 精神の機微、物思いの襞のようなものを、すべて正しく言い表してくれる。物語(フィクション)と現実(ノンフィクション)は、ほんとうはあべこべなのだと思う。現実は嘘をつき、物語は真実を述べる。文学は、少なくとも漱石のような文学は、世界を解き明かす経典のようなものだ。


WRがいなくて、目を醒まして 同じ夜を2度繰り返したことに気がついて、ウラディミールとエストラゴンを思い出した。時間の平等性について考える。過去を悔やんだり、前に進めないで停滞しているひとが過去に取り残されるわけではないし、将来に目標を掲げて突き進んでいるひとが、先に未来に行けるわけでもない。過去や現在や未来、歴史とか日々とかいうのは時間のことで、時間は よろこびも苦しみも、こどもも大人も老人もねこも、分け隔てなく搭載して過去から未来へ進み続けている。視線がゆるやかに動く。今の季節は 明け方から朝への変貌が、ほんとうに一瞬の出来事であることを知る。WRがいないと、喋るひとがいない。まるみちゃんや ねこたちの生活は変わらない。変わらないけれども、WRがいないことで いつもなら120%の笑顔を見せる場面でも、100%の笑顔となっている。此処のところまたずっと、自分を世界の真ん中に据え置いて 自分は 自分が 自分って、と頭の中でグルグル周旋させて考えていた。そうして やっと、今は自分について忘却している。自分とは何かというと、自分とは わたしの目的を果たすための道具だと思う。わたしが思う良い道具とは、本質的で、創造的で、控えめで、できる限り美しく(形態は機能に従う)、社会的責任を果たすもののこと。これらが備わってさえいれば、自我なんてきっと、不要となるに違いない。


行人 (岩波文庫)

行人 (岩波文庫)