考えない、思う、考えない

晩夏なんてもう完全に終わり、秋だ、秋かな?もう秋だよね、と悩んでいるうちにもう10月も半ばを過ぎる。日々が すごい速さで進んでいく。夏の頃に決めた 2ヶ月先にある予定も、あっという間に巡って過ぎて、たちまち過去の出来事になってしまう。何でもないたくさんの日があり、その中に 何でもなくない一日や一時が、宝物のようにひっそりと埋もれている。なまえのつかない無数の日々が、何でもなくない瞬間を つくる。ほんとうに忘れられない日なんて、一生のうちに そう何度も巡ってくるわけなんて ない。褒められたって、可愛がられたって、そんなのすぐに忘れてしまうよ。忘れられない日の忘れられない場面には、ぜったいに わたし以外の登場人物がいない。忘れられないことは、すべて間違いなく他者を介在する出来事なのに、甦る記憶の場面の中で わたしはかならずひとりになってる。わたしはわたしのことしかわからないのだ。逆さまの視点からわたし自身を眺めようとしても、それは逆さまの視点からこちらを見ようとしているわたしにしかならない。永遠に見ることができない景色もある。現に わたしの頭の中では、記憶が刻々と捏造され変容し続ける。なのに どうしてあのとき同じ場所に居たからといって、今もまだ何かを共有しているように錯覚してしまうんだろうね?

仕事帰り、最寄り駅でWRと待ち合わせをして セレクトショップでWRが12月用のコートを買う。服好きなのに服屋がこわいWRは、どんな近所のお店でも「服が見たいからついてきて」という。試着するときも、緊張の為かすぐに身体が凝り固まる。今回も、服オタクなショップスタッフが ボタンホールのレザー加工とか ポケットの切り込み角度についてマニアックな解説を述べるのに対し、当然何も会話が弾まず「ハー、そうっすか」「なるほど」「そうっすか」「なるほど」と、受け流し人形のようになっていた。

お買い物のあとは、わたしの大好きなインド料理屋へ。お互いにずっと忙しかったので、WRと一緒に夕食を食べるのは実に久しぶりのこと。食事を終える頃、さっきまで晴れていた夜空に唐突に雷鳴が響き、スコールのような豪雨になる。下手なアニメのように、アスファルトに 雨が斜めに突き刺さっている。雨を待ち 帰り際、ウェイターのインド人がわたしにだけ「イツモ アリガト ゴザイマス」と声を掛けたので、WRが爆笑していた。このお店に来たのは、この半年間で5回くらいで微妙なペースなんだけど、わたしは本日を持って、あのインド人の中で 準常連くらいのランクに昇格したのだろうか。

最近、病気のひとをよく見掛ける。明らかに病気で、本人にもその自覚はあるはずなのだけど、誰にも助けを求めていないし むしろ病気であることに助けられて生きているようなひとたちのこと。究極的には 物凄い歯痛でも、末期の癌でいずれ命を失うことになるとしても、本人が困っていなければ、その病は悪でも災厄でもなく、ただの病に過ぎないのだろうけど、眺めているわたしは 物凄い問題を感じる。助けてあげたいとも助けられるとも思わないけど、内臓が震えるくらい、問題を感じる。形容しがたい恐ろしさだ。すべて、医学や心理学以前の話だ。心の内の問題は、結局のところ幸運や不運の沢山の偶然を経たのちに 台風の進路のように、ふと気まぐれにそれまで道を逸れて、はじめて快復に向かうことが多いような気がする。この頃は、痛々しいものばかりに目が向いてしまう。他人に対しても 自分自身に対しても、もっと望むものが少ない世の中ならいいのだろうか。わからない。