空想と眩暈

先週は2日間、ライブを観てきた。大切なともだちのライブ。2日間とも、会場の数千席の座席がソールドアウト。彼の音楽は昔も今も素晴らしくて、とてもとても人気がある。あの頃は、わたしひとりだけだったのに。23時 階段の下で、冷たい煉瓦にお尻をつけて待っていたのに。

何らかの芸術に勇気を貰う、って 色んなひとの口からよく聞くけどわたしにはよくわからない。けれども、このひとからは いつも言葉にできない大きなものを貰っている。貰い続けている。これからも貰ってゆくのだろう。このひとは、わたし自身から凄く遠くて 凄く近い。最後の最後、アンコールのそのまた最後のアンコールは見ないで帰る。ホールから駅までの帰り道、たくさんのお客さんの声を耳に入れるのが嫌だ。今日のライブが良かったとか悪かったとか、あの曲がどうだとか、噂話とか想像上のお話とか、そう、ちょうどarcticmonkeysの帰り道にわたしたちがしていたような感想や批評のすべてを、このひとのことに限っては、わたしはぜったい 耳に入れたくないんだよ。ぜんぶ他人の作り話だから嫌なんだよ。音楽はとても素晴らしくて、色んなことを考えて、やっぱり訳がわからなくなる。しなくちゃ、って もう10年も遅れてわたしだって思うけど、広がり過ぎた自由と義務に、やはりどうしていいかわからなくなる。

ほんとうの悲しみは、決して消えることはないと考えた。悲しみが齎す痛さや苦しさや孤独が、肉体や記憶から去り、忘れることができたとしても、かたちのない悲しみの影のようなものは、別の生き物に変容して、ずっと自分自身に寄り添いつづける。気がつけば 病気は治って、大人になった。わたしはずっとずっと 何十年もこどものままで生きてきたので、大人の振る舞いや約束事を何もわかっていないと知った。


――――ライブ来てくれて有難うございました。またいいものが更に見せられるように頑張ります。