バレエ教室の床はすずらんの香水の匂いがする

ザ・フォーク・クルセダーズサディスティック・ミカ・バンド加藤和彦さんがお亡くなりになったと聞いて、愕然。数ヶ月前 しごとの席でお会いしたとき、すらりと伸びた長い足が あまりに素敵で驚きました。WRが早速CD棚から「紀元弐阡年」を取り出して音楽をかけてくれた。吉田拓郎といい、加藤和彦といい、60年代後半から70年代にかけてのフォークシンガーやGSのギターボーカルって 若い頃の姿が ほんとうにほんとうに素敵。わたしはテレビタレントやジャニーズにいっさい興味のないこどもで、男のひとの趣味というのが、3歳の頃から首尾一貫して変わらないまま大人になってしまった。ずっとずっと、ギターを弾いて歌をうたって痩せてて神経質で大人しい24歳の男の子が好き。ご冥福を お祈りします。


紀元弐千年

紀元弐千年

人間なんて

人間なんて


どようびは映画。渋谷で「パリ・オペラ座のすべて」を観る。午前、午後と用事がバタバタと立て込んで、ただでさえ時間に余裕がない状態で家を出たところ 家から20秒の地点でうっかりスペインからの直輸入のレザーブーツを購入してしまい、それを家に置きに戻る、という想定外のハプニングも巻き起こった為、いよいよ映画の時間に遅刻しそうになり、今回の映画はオンラインで既に座席予約とチケット支払いは完了していたものの、上映開始15分前までに窓口でチケットを引き換えないと予約が消滅してしまう上にチケットの払い戻しも不可能という、何かと過酷な条件がそろっていたので、貧乏なわたしは、焦った。焦って渋谷まで疾走した。すると、どんな奇跡が起きたのかわからないけど、家から映画館の窓口まで、12分ジャストで到着してしまった。みんなわたしの見た目から絶対にそうは信じないだろうけど、わたしは わたしの足の速さにほれぼれとした。


ーー祖母の弟が、短距離走でオリンピック日本代表だったんだけど、実は今更ながらわたしにもその遺伝子が息づいていたのだろうか?彼は早稲田の競走部だったんだけど、元々走る為に大学に入ったわけでない、何の変哲もない一般学生で、ある日講義に遅刻しそうになって構内をすごい速さで疾走していたところ、短距離選手としてスカウトされたという。なんて牧歌的な時代なんだろう。そんなこんなでオリンピック日本代表にまでなったのに、その年のオリンピックは戦争で中止になってしまったという不遇のひと。その後20代後半〜30代前半まで重度のアル中となり実家の会社に多大な迷惑を掛け、一旦戻っていた実家からも勘当されて、そこから何をどうやって立ち直ったのかは不明だけど、再び東京に戻ってきて陸上協会や地元の駅伝の世話役をしていた。彼は一昨年だかに亡くなったけど、30代でアル中を克服して以来、死ぬまで一滴のお酒も口にしなかった、らしい。そこそこの真人間が多い一族のなかで、わりと変態の部類に入るひとだったような気がする。このひとのエピソードの 依存症的で極端な面が、とても自分に似ていると感じる。けれど このひとだって、もうこの世にはいないひとだ。死んでしまったのに こうして人生をショートカットでブログに綴られる気持ちって、どんなだろうか。ーー


とにかく、わたしは家から12分で映画館に着いたので、「パリ・オペラ座のすべて」を無事観賞することができた。バレエが好きなので、ダンサーを眺めているのは楽しい。それにわたしはドレスを着て踊る発表会より、日常的なバーレッスンの方が断然大好きだったので、オペラ座のスタジオレッスンが見られるというだけで、もう楽しい。女性ダンサーのレッスン風景は食い入るように眺めてしまうのに、男性が踊るシーンになると、物凄い睡魔に襲われて困った。彼らが古典を踊るときのあのタイツ姿って、いつまでたっても「ズボンを履き忘れたひと」に見える。

この映画はダンスシーンだけではなくて、企業としてのオペラ座を垣間見ることができるのが貴重。わたしはいつまでたっても偽社会人のままだけど、会社のしごととしても プライベートでも、芸術とビジネスということについて、何かと考えさせられる機会が多いので。究極的には、ほんとうに純粋な意味での芸術、余計なものでいっぱいの豪華絢爛な何の役にも立たない芸術の為の芸術なんていうものは、ハプスブルク家みたいなパトロンがいないと成立しないような気がしてしまう。

それから、いつも思うけど、Bunkamuraル・シネマの客層って、都内のどの映画館よりもとんでもない。マナーとかの話ではなくて、マダムでスノッブで怪物的な感じが、わたしにはとても耐え難いよ。60歳のママと30歳の娘が東急の紙袋提げて入場を待っているようなこんな場所は。こんなこと、今更感じてもまったく仕方の無いことなんだけど。



映画を観たあとは、再び道玄坂を猛スピードで駆け下りて、地下鉄で四谷三丁目に移動。WRとテツオと3人でジンギスカン屋で夕食。話題は政局の話、経済の話、文学の話、音楽の話など。全員が自分勝手でマイペースなので、いつもの感じで身勝手に喋って身勝手に飲み、身勝手に羊肉を食べる。テツオは記者なので、以前はタローの裏話が話題の中心だったけど、世の中は流れ流れて今はハト。クルッポー。わたしは、テツオみたいにしごとの持ちネタも少ないので、加藤和彦追悼ということで もうもうと煙を上げるジンギスカンを前に「帰ってきたヨッパライ」を早回しを再現して歌ってあげた。それから、二軒目のバーではひとりだけ店の玄関の外に出て、入口の扉の木枠を額縁に見立てて、ジャズに合わせてふたりの為に舞踏を披露してあげた。WRとテツオは口をポカンと開けて拍手をしてくれた。

にちようびは、午前中に出掛ける用事を済ませて、あとは家の中で掃除、洗濯、お片づけに明け暮れる。近所を散歩する。お勉強から帰ってきたWRとスープカレーを食べて、まるみちゃんと遊んだり、のんびりと過ごす。明日は 待ちに待ったイベントがあるので、週末の夜の憂鬱がない。

投影している

終業後、ライブに赴く。andymoriワンマンライブ@恵比寿Liquid Room.

ライブ楽しかった!浴槽内のお湯の温度差みたいに、会場全体を眺めると 熱さと冷たさが両極端に二分してたけど、わたしは ステージを見ていて、楽しかった。もう10年とか こういうライブを眺め続けて過ごしてきたので、わたしの中での よいバンド、よいライブ、その理想形がもうすっかり完成していてその基準から離れて何かを思うことはできないのだけど、多分昨日のライブは沢山の不完全を含めたうえで、とてもよいものだったと感じた。さらに 自分自身に関して云うと、わたしは自分がライブを観ていていちばん幸福だった時期を追体験したくて、今日此処に足を運んでいるわけだ、と気がついた。未来への欲望とか 期待とか 夢が現実になる瞬間の間近にいること。ほんとうはきっと、これはあれに 似ているようで、ちっとも似てない。此処では何一つわたしに関与するものがない。誰にも知られないし、知られていない。安全な場所で、過去と現在を検証している。素敵な声を持っているなんて素敵だね。どんなに頭を振ってもさらさらのままでいる髪の毛も素敵。そういえばわたしには、文字の中に棲んでいる 声を知らないともだちもいる。声を知らないともだちは、いったい どんな声で喋るんだろう。

ああ 男の子が羨ましくなる、勉強して しごとして、しごとして しごとしてしごとして、あとは可愛い女の子探したり見つけたり連れて歩いたり結婚したりして、こどもを産むのも育てるのも、ぜんぶ可愛い女の子だった彼女にお任せすれば、あとは やっぱりしごとをして、そのままで生きていくことができるのだから、



世界の家族、世界の人間の全員が 血縁のない孤児だったらいいのに。一人ぼっちでいることが当たり前で、寂しいことも当たり前で、その中から好きなひと同士で一緒の家に暮らせばいいのに。こども愛する親の自己愛の湿度が嫌い。ねこの赤ちゃんは 全員が捨て子で全員がひとりぼっちで、誰のこどもでもないよ、だから とても可哀想で、可愛い。

秋の真夜中はとても寒いので、ねんねこ と ねこんこ を抱っこして眠るけど、ねこたちの寝相は とても悪く、朝になると いつもベッドの外に弾けて飛んでる。

考えない、思う、考えない

晩夏なんてもう完全に終わり、秋だ、秋かな?もう秋だよね、と悩んでいるうちにもう10月も半ばを過ぎる。日々が すごい速さで進んでいく。夏の頃に決めた 2ヶ月先にある予定も、あっという間に巡って過ぎて、たちまち過去の出来事になってしまう。何でもないたくさんの日があり、その中に 何でもなくない一日や一時が、宝物のようにひっそりと埋もれている。なまえのつかない無数の日々が、何でもなくない瞬間を つくる。ほんとうに忘れられない日なんて、一生のうちに そう何度も巡ってくるわけなんて ない。褒められたって、可愛がられたって、そんなのすぐに忘れてしまうよ。忘れられない日の忘れられない場面には、ぜったいに わたし以外の登場人物がいない。忘れられないことは、すべて間違いなく他者を介在する出来事なのに、甦る記憶の場面の中で わたしはかならずひとりになってる。わたしはわたしのことしかわからないのだ。逆さまの視点からわたし自身を眺めようとしても、それは逆さまの視点からこちらを見ようとしているわたしにしかならない。永遠に見ることができない景色もある。現に わたしの頭の中では、記憶が刻々と捏造され変容し続ける。なのに どうしてあのとき同じ場所に居たからといって、今もまだ何かを共有しているように錯覚してしまうんだろうね?

仕事帰り、最寄り駅でWRと待ち合わせをして セレクトショップでWRが12月用のコートを買う。服好きなのに服屋がこわいWRは、どんな近所のお店でも「服が見たいからついてきて」という。試着するときも、緊張の為かすぐに身体が凝り固まる。今回も、服オタクなショップスタッフが ボタンホールのレザー加工とか ポケットの切り込み角度についてマニアックな解説を述べるのに対し、当然何も会話が弾まず「ハー、そうっすか」「なるほど」「そうっすか」「なるほど」と、受け流し人形のようになっていた。

お買い物のあとは、わたしの大好きなインド料理屋へ。お互いにずっと忙しかったので、WRと一緒に夕食を食べるのは実に久しぶりのこと。食事を終える頃、さっきまで晴れていた夜空に唐突に雷鳴が響き、スコールのような豪雨になる。下手なアニメのように、アスファルトに 雨が斜めに突き刺さっている。雨を待ち 帰り際、ウェイターのインド人がわたしにだけ「イツモ アリガト ゴザイマス」と声を掛けたので、WRが爆笑していた。このお店に来たのは、この半年間で5回くらいで微妙なペースなんだけど、わたしは本日を持って、あのインド人の中で 準常連くらいのランクに昇格したのだろうか。

最近、病気のひとをよく見掛ける。明らかに病気で、本人にもその自覚はあるはずなのだけど、誰にも助けを求めていないし むしろ病気であることに助けられて生きているようなひとたちのこと。究極的には 物凄い歯痛でも、末期の癌でいずれ命を失うことになるとしても、本人が困っていなければ、その病は悪でも災厄でもなく、ただの病に過ぎないのだろうけど、眺めているわたしは 物凄い問題を感じる。助けてあげたいとも助けられるとも思わないけど、内臓が震えるくらい、問題を感じる。形容しがたい恐ろしさだ。すべて、医学や心理学以前の話だ。心の内の問題は、結局のところ幸運や不運の沢山の偶然を経たのちに 台風の進路のように、ふと気まぐれにそれまで道を逸れて、はじめて快復に向かうことが多いような気がする。この頃は、痛々しいものばかりに目が向いてしまう。他人に対しても 自分自身に対しても、もっと望むものが少ない世の中ならいいのだろうか。わからない。

ボヴァリズム

October 9, 2009


3連休の始まり、金曜の夜。生理痛を飛ばすドラッグで朦朧。帰宅前に渋谷の町をうろついていたら、石井くんから連絡があり、女3人で“かえる”に行くことに。WRも来る、しかしWRはごはんだけ食べてすぐに帰る。女3人で展開される会話ほど耐え難く退屈で浅ましいものも世の中にないけど、石井くんとミッキンの3人だけは全然別で、このときばかりは いつも 面白すぎておなかがよじれる。話題は インドエステと大久保の垢すりの話、ハニービー博士のクリームの効果、スポーツジムやスパで集団化しているババアは殺してもいいんじゃないかという話、サークルの友人の中でDVしそうな奴は誰かという話、バウムクーヘン事件の再現、など。話の内容自体はごくふつうだけど、石井くんもミッキンも 文才がありあまりすぎて只事ではない。愉快な秋の夜。


October 10, 2009


それぞれ外で別の用事を済ませてから、夕方WRと新宿で待ち合わせ。『空気人形』を観賞。現代の日本人の映画監督って、みんな ソフトフォーカスで、クウネルぽいかお洒落っぽいかのどっちかで、舞台は大概が東京か あるいは地方の田舎で、空虚感とか都市の孤独とか家族の溝とかを描いてて、とにかく押しなべて同じような作風に見えるから区別が付かないんだけど、是枝監督の映画は まだ2つか3つしか見たことないけど、わたし結構好きかも。『空気人形』も現代の日本の映画で、例に違わず定型的な病み方をしているひとか 孤独なひとしか出てこなかったけど、でもまぁ新しい精神病の型を見つけるために映画があるわけではないのでそれは良い。わたしは映画好きなひとではないので、映画を見ると必ずどこかに不満足を探してしまうけど、この映画には、物足りなさや疑問が全然なかった。空気人形のぞみちゃんの、ペ・ドゥナの実写の顔じゃなくてお人形の顔が、昨晩遊んだばかりのミッキンにそっくりだった・・、ミッキン お人形みたいに可愛いのに、それが仇となってダッチワイフにそっくりだなんて気の毒に。映画で泣いたことなんかないのに、空気人形が お誕生日会を空想する場面では あまりにも不憫でうっかり涙が出そうになってしまった。心を持ってから知り合ったひとたちが全員登場してお誕生日をお祝いするんだけど、それが 道ですれ違ってひと言だけ言葉を交わしたひとたちだったりするんだよ。わたしも、結婚パーティーに呼べるともだちなんて殆どいないから、その気持ちはよくわかります。救いの無さが心地よく、腑に落ちる映画という感じ。





October 11, 2009


にちようび。朝から渋谷で『ボヴァリー夫人』を観賞。フロベールなのに ロシア映画という時点で何かが異常だと気付いていたものの、やはりこの映画は原作の異常さと同じベクトルでの、映画らしい異常さに満ちた気色の悪い作品だった。蝿飛びすぎだし、何よりボヴァリーのルックスが凄い。ボヴァリー キメすぎ。ボヴァりすぎ。わたしの大好きな薬屋大爆発のシーンが無かったのは残念だったけど、もうひとつの目玉 足切断エピソードは忘れずちゃんと組み込まれていたので、許す。シュバンクマイエルの映画を観た後と同じような読後感。朝早く、ということもあって、観客に若者の姿は皆無で、銀髪の松涛マダムや文研の教授、みたいなひとが多かったけど、やっぱり貴族階級ってグロテスクだよね。宇田川カフェで大慌てでランチを済ませ、WRもわたしも午後の予定に向けてそれぞれ別の場所へ。この連休中は、映画を観る以外 一日中別行動なので、わたしたちはまるで ミクシーで出会った映画ともだちのようであった。ボヴァリーを観たあと、数時間は あまりの強烈さに頭の中がボヴァってクラクラしていた。

夜は、またしても石井くんのお誘いで、石井くんの友人宅でのホームパーティーに参加。これが凄い。築50年のレトロなお屋敷で、庭に面したリビング2間をぶちぬいて、サロンのようになっている。数えることは不可能だったけど、きっと40人くらいは居たのではないか。ホームパーティーにありがちな、クリエイティブ職業のひとが沢山いて、しかも早稲田の卒業生が半数以上いたようで、室内なのに帽子率が異常に高く(実は全員 禿げなのだろうか?)、お洒落眼鏡にお洒落髭、お洒落重ね着でも喋るとエキセントリックな部分が1mmもなくまったくのまとも、まともどころか 根暗な振りして話してみると意外にも相当爽やかなクソ野郎、みたいに思えるひとたちが わんさかといた。何年入学っすか?学部ドコっすか?的な会話がそこかしこで交わされる、馴れ合いの果てのあのおぞましさ。しかも おぞましいのはそればかりではなく、サロンから2Fへと続く螺旋階段を上がったすぐ上の部屋では、90歳のおばあちゃんが眠っているのだろうだ。90歳だから耳が遠く、真下のサロンで40人の若者が狂騒を繰り広げていたも、いっさい気付いていないそうだ。トイレに行くのにも そのおばあちゃんのフトンの真横を通らねばならない。なんて恐ろしい場所なんだよ。

結局わたしは、石井くんや 別の場所で数回会ったことがあり顔を知っているひとと 身を小さくして お酒を呑んでた。途中、有名人っぽいひとが来て、即席ライブみたいな状況になり、もうジョンとかレノンとかラブとかピースとかのグルーヴに席捲されたけど、やっぱりわたしは こういうのダメ。「映像とかやってます」とか言う男がダメ。あまり我慢するのも代謝に悪いと思い、23時頃 勝手に帰宅。あの後は いったいどうなったのだろうか。





October 12, 2009


体育の日で今日もお休み。3日連続で映画に行きたかった けれども、席がとれず諦める。WRは一日中外出。わたしはお昼の早いうちに用事を済ませ、暇を持て余した午後は 渋谷をぶらぶらと 歩く。“オープニングセレモニー”を眺めた後、電器屋でイヤフォンを買って、すぐに家に戻る。ああ、毎週 3連休があるといいな。でもお休みが多いと、お金を使いすぎるような気もする。姿が見えないのに、街を歩くと何処からともなく 金木犀が香る。昼はまだ太陽が燦燦と明るく、暑くさえあり、渋谷の女の子たちはムートンブーツとサンダル履きが半々くらいで、今年の秋は 季節がよくわからない。渋谷の町に、お小遣いを持って、きれいなものを探しに行ったのに、わたしの欲しいきれいなものは見つからなかった。金木犀の香りはきれいだけど姿が見えない。WRは 仕事の勉強が大詰めで、夜まで家に帰らない。ねこんこの 顔の白いところが、手垢で汚れて黒くなってる。かなしい。生理が終わって、背骨がポキポキと鳴っている。

美しいひと

先週、会社で 美しいひとに会った。有名な演奏家の女性。以前、コンサートの仕事で そのひとの演奏を聴き、舞台袖ですれ違ってご挨拶したとき、そのひとはとうぜん演奏家のドレスに演奏家のヘアメイクをしていて、まるでCDジャケットの写真で見るのと同じように きれいだったけど、打ち合わせの為にわたしの会社に現れたその日は、ふつうの服を着て、ふつうのヘアメイクで、ふつうのひとの顔をしていた。それが、見惚れるくらいに美しかった。胸があまりにもドキドキしすぎたせいで、ご挨拶の声が小鳥のように震えてしまった。きれい。いい香り。楽器なんか持ってなくても、まるで 音楽みたいに美しいひと。きれい。可愛い。きれい。すてき。


顔やスタイルがせいぜい十人並以上で、後は単に有名大学出身だとか、難関資格を持っているとか、日本を代表する企業にお勤めしているとか、たったそれだけの理由で「才色兼備」みたいに扱われているおんなのひと、又は自分で自分をそうだと思い込んでしまっている世の中のおんなのひとたちって、いったい何なんだろう、と思ってしまう。外見しかないモデルや女優も何なんだろう。世の中の単純にして巧みな嘘が、一瞬で瓦解されるようなきれいさだった。その日 会話した美しいひとは、物事の追及の方法が ほんとう素晴らしく美しい。ほんとうに美しいひとを知ったあとは、美しい や きれい を、簡単には云えなくなっちゃう。だって、そんな無責任な美しいやきれいは、あのひとの美しさを損なってしまうような 気がするもの。

美しいひとは、病的なところがひとつもない。物思いは深くても、空洞がない。空っぽの部分が全然ない。美しいひとは、とても人間的であるような気がした。きれい。かわいい。きれい。何日も経つけどまだちっとも忘れないよ。きれい。

台風を待ってる

天気が気になってテレビニュースを点けたら、案の定 画面いっぱいに天気図が広がっている。台風が来る。東京にいちばん接近するのが8日のお昼頃だというから、ランチを買いに外に出れないだろうと思って、前の晩から会社に持っていく昼食を用意しておいた。


↓これ



WRに見せると、「ちょ、それは幾ら何でも大きすぎじゃない?食べきれるの?大きすぎない?・・大きすぎると思うんだよ」と度肝を抜かれた様子だったけど、まったくふつう。というか、普段は会社でも家でもカップラーメンはまったく食べないのだけど、会社の同僚の女のひとたちは結構な頻度でこういうものを買ってきていて、女だけで集まって食べているせいか、みんな超特大ドンブリカップラーメンと併せるかたちで、からあげクンとかアメリカンドッグとかをおかずにして、更に「やさいが足りないわ」と言って、コンビニサラダにドレッシングをドバドバかけて 食べてるよ。そのうえ更にジュースやプリンまで 食べてるよ。もう めちゃくちゃだ。だからわたしがデカ王食べるのだって、そんなの まったく ふつうのことだよ。

わたしもWRも 台風を見越して普段よりはやく家を出たので、電車もスイスイ。わたしは長靴にリュックにボロい傘、と完膚なきまでの防護服スタイルで出勤。リュックにはデカ王が入ってるし。WRは立派なビジネスマンなので、こんな日でもいつも通りのスーツに革靴。ひとつだけいつもと違うのは、スーツの色が漆黒だったことで、「なんで今日は喪服なの?」と質問すると、「今日は(台風で)ひとが死ぬ恐れがあるから、喪服で行く」と言っていた。わたしたちって、ほんとうに用意周到で賢明な家族。家でおるすばんの まるみちゃんやねこちゃんたちが、台風の中 ドーナツを買いに外に出ないように、扉やガラス窓を 板切れとクギでバッテンに打ち付けておいた。ドラえもんの世界では、台風の前にはみんなかならずこれをやってる。台風のあと、外すところは見たことがない。

ウィークエンドレポート

土曜日は 美容院で前髪を切って視界が開け、夜は近所で石井さんとランブルスコ呑んでマルゲリータ食べて珈琲飲んだ。ニューカレドニア行く約束した。津波が来なければ。金曜日は、夕方からWRと代官山まで散歩して、10月がお誕生日のWRMにプレゼント買って、WRがお洒落すぎる服屋でうっかりと秋の服を買い、トリオで街を闊歩する足が小枝のように細い犬を気味悪く眺め、恵比寿でつばめハンバーグ食べて、新装丁の楳図漫画を買って家に帰った。雨でも晴れでも、休日の週末は楽しい。歩いたり喋ったりできることが楽しい。

会社生活が もう表面張力ギリギリの感じになってきていて、勿論わたしはこどもではないので 会社が嫌で朝起きれないとか 鬱状態で欠勤しちゃう、とか、そんな馬鹿げたことは絶対にしないで毎日ハツラツげんきに通っているけど、でも 精神の奥の奥の奥底はもうダメだ。嫌なのは業務でもひとでも給料の安さでもなくて、企業風土みたいなのが嫌だ。わたしが通っていた高校みたいな会社。田舎まるだしのエリート意識が嫌だ。ああ、みんな 話始めた瞬間にはもう、結末がわかる話をしている。安穏とした日々の営みを決して乱すことのないように 全員が脳を停止させている。ディズニー土産のミッキーマウスのストラップなんてわたし要らない。ほらまたみんなが 大喜びする振りをしている、あんなの帰り道に棄ててしまうのに。

WRは土曜も忙しいので、此の頃は日曜が土曜のようで、土曜のようだけど日曜なので、目が覚めるとすぐに月曜が始まっちゃうんだ。キャメルの革のショートブーツが欲しい。もう10年も履いているキャメルの革のショートブーツが、木底は完全に磨り減り、縫い目はほつれ、去年の冬の時点でいつバラバラに壊れてもおかしくない瀕死状態で履いていたので、いい加減にもう 新しいブーツを買わなくては冬が越せない。それがぜったいにキャメルの革のショートブーツでなくてはいけない。ヒールがあって、ウエスタンのかたちだけど 革ははじめから柔らかくなくてはいけない。新しいキャメルの革のショートブーツを買わない限り、10年履いてるボロボロのキャメルの革のショートブーツを 棄てることはできない。キャメルの革のショートブーツは 目玉が飛び出るほど高いので、誕生日やクリスマスにプレゼントしてもらえると嬉しいけど、わたしの誕生日もクリスマスも12月だから、わたしがそれを待つのなら、12月まで裸足で過ごす羽目になる。唯物論の物欲、欲しいもののこと考えていると脳が幸せで満たされるよ、実際に手に入れたいかどうかはこの際別の話にしても。いいことないかな。


洗礼 1 (ビッグコミックススペシャル)

洗礼 1 (ビッグコミックススペシャル)

洗礼 2 (ビッグコミックススペシャル)

洗礼 2 (ビッグコミックススペシャル)

洗礼 3 (ビッグコミックススペシャル)

洗礼 3 (ビッグコミックススペシャル)